その戦争によって
二十二の王家が
この地上から姿を消した
それ故
いつしかその戦争は
こう呼ばれるようになった
王家の墓標
今日
我々が第二次世界大戦と呼んでいる戦争の
別名である。
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1
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空は青く、確かにそこに存在している。
だがそれを誰も決して掴むことは出来ない。
月は白く、確かにそこで輝いている。
だが手を伸ばしても決して触れることは出来ない。
漆黒の闇は全てを覆い隠す。
だが全ては依然としてそこに存在している。
全ては空蝉(うつせみ)か。
全ては現(うつつ)か。
あるいはその両方か。
真実の扉が開くとき、あらゆる過去が、空しく記憶の墓穴に葬り去られる。
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物語は、今から七年前の晩夏にまで遡る
その光景は、瞬時に、そして永遠に、少女の脳裏に焼きついてしまった。
この瞬間から、少女の運命は一変してしまった。それは生涯彼女に付き
まとい、煉獄が如き業火が常に彼女の心の安寧を脅かし続けることになる。
果たしてそれは現実なのか?
まだ幼い彼女にそれをにわかに理解することなど、そもそもが不可能な話で
あった。だが故に、言葉における、あるいは理性や知性における理解という
ものを超えた本質的な「恐怖」として、彼女の心の奥底に永遠に住み着くこと
になってしまったのであった。
その陰惨たる場面を、少女は立ち尽くし、ただ呆然と見つめていた。
しばらくして そう、およそ数分の後、異変に気付いた彼女の若い母親が、
少女のもとにやってきて、既に起こってしまった惨劇をようやく目の当たりにした。
その若い母親が発した絶叫とともに、淀み、とどまっていた時の流れが、不意に
あわただしく動き始めた。 |
彼らが暮らす豪華な屋敷に、やがて多くの警察官が姿を現した。
動揺し、幼い娘を抱きしめて泣き叫ぶ母親を、女性警察官が懸命になだめる。
だが狂わんばかりに取り乱す母親とは対照的に、その腕の中に抱かれた少女
の姿は、周囲からはまったく冷静な態度に映った。
だが、これこそ彼女が、その心理にきわめて深刻な打撃を受けていたということ
を、周りの大人たちが気付くのには、今しばらく時間を要した。
少女は言うまでもなく、決して冷静だったわけではない。あまりの衝撃に、全て
の感情を表現する術を、つまりは表情というものを失ってしまったのだ。
事件の現場は、まさに血の海と化していた。
大きなバスタブの中で、彼は頭をうなだれたまま、最早微動だにしなかった。
鮮血。だがその言葉が持つイメージとは違い、死者の血に溢れた湯船の中は、
決して赤くはない。それはまさに死を象徴する色で満たされている。
黒。いや、より的確な表現をしようと思うなら、それは薄汚れた茶色、といった
ところであろうか。
それこそが、死者から溢れ出た血の色であった。 |
一通りの現場検証が終了するのに、数日を要した。死亡した男性の妻と娘は、
事件の可能性を考慮した警察が厳重に護衛を続けた。
死んだ男は、ありていにいえば“大物”であった。富豪の一族に生まれた若き
御曹司。事件を報じるメディアは、亡くなった男性をこう形容した。
週刊誌が、スキャンダラスに一族の“内幕”を暴露する。そして記事は、きっと
陰謀の果てに彼は暗殺されたに違いない、と断定的に締めくくられていた。
だが、警察の発表は、少なくとも彼らにとっては意外なものであった。
警察は、彼の死には事件性は一切なく、自殺であると断定した。何かを期待し
た世間や一部メディアには不満が残ったかもしれないが、警察が行った厳格な
鑑識と検証から導かれた結論は、どう客観的に見ても、至極当然なものだった
といえよう。
彼は湯船の中で左腕の手首に刃物を当て、動脈を切った。そして失血死したの
だ。争った形跡もなく、同居する彼の家族も、彼が亡くなったとき第三者が邸内
に侵入したことはなかったと断言したし、実際、警察もその痕跡を把握することは
なかったのだ。
とはいうものの、一つだけ、自殺と断定するには気がかりな点があった。それは
重要かつ基本的な問題であった。
自殺する人間の心理にその不可欠な要素。彼にはそれが見当たらなかったのだ。
欠落していた、といってもいい。そう、動機である。
なぜ彼が自殺をしなければならなかったのか?
この根本的な問いに対する回答は、遂に警察も得ることは出来なかった。また、
状況証拠としての“遺書”も存在していなかった。
だが警察は、それでも自殺と断定した。たしかに、自殺する人間が必ずしも遺書
を残すとは限らなかった。実際、警察が扱った多くの自殺者が遺書を残さずにこの
世を去っていた。警察は、その経験から、あえてこのことを重要視しなかったのだ。
こうして、この一件は公式な結論を得て、捜査は終了した。
取り残された家族に とりわけ、妻と幼い娘の心に 深い傷を残して。 |
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ああ・・・今日もまた暑くなりそうだ。
いつにも増して、彼の足取りは重かった。本部長から直接呼出しを喰らうなんて、い
つ以来のことだろうか?俺は又何かしでかしたか?又間抜けなことを?
だがいくら振り返ってみても、彼に思い当たる節はなかった。いや、とはいいつつも、
まったく心当たりがないわけでもなかった。言い換えれば、まったく思い当たること
がない、と断言できるほど、彼は仕事らしい仕事を、ここ数年した覚えがなかったの
だから。
「好きで遊んでるわけじゃないんだ!」 彼は心の中でこうはき捨てた。
たしかに、“警部”という自らの肩書きにまったく見合った仕事をしていないことは、
彼も十二分に心得てはいた。しかし、である。閑職に追いやられ、まったく手持ち
無沙汰なこの状況を、上司に指摘される筋合いなどまったくないはずだ。
そう、今のこの惨めな境遇に陥ったのも、決して自分に落度があったからではない。
政治。
下らなくも人の運命を左右する、この厄介な人間関係の別名が、彼に今現在の不遇
をもたらしたのだ。
だが・・・。上司の待つ部屋へと続く階段をゆっくりと上りながら、彼はこうも思った。
「俺のいっていることは正論だ。・・・しかしだ、そもそも正論が通る世の中だったら、
今現在のこの境遇に、俺が置かれること自体、はじめからなかったはずなんだ」
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そう思うと、気持ちも体も、彼には一層重いものに感じられた。
はあ、と一つ思わず短いため息が漏れる。そのときだった。
「多祥(たしょう)!多祥じゃないか」
背後から、何者かが彼の名を呼んだ。多祥は思わずドキリとする。その聞き覚えの
ある声。そしてその記憶に付きまとう嫌悪感。やおら振り返ると、案の定、最も会い
たくない顔がそこにあった。
「やっぱり多祥か。はっはっはっはっ!」
声の主は愛野 仁だった。彼は多祥とは同期だった。
「くそっ」
多祥は心の中で、こう言葉を吐き捨てた。
大体、何のためにわざわざ階段を使って上階に向かっていたのか。答えはあまり
に明快だ。彼は本部長のもとに向かう途中で、誰にも会いたくなかったからだった。
そう、エレベーターを使わず、人目を避けるように豪華なこの本庁の建物の片隅
に置かれた階段をひっそり歩いている今のこの姿こそ、なにより多祥の心情を如
実に現していたのだ。
だが、にも拘らず、何の因果か、よりによって多祥は今地上で最も避けたかった
同期の出世頭と、半ば閉ざされたこの空間で、二人きりになってしまったのだ。
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「同じ本庁にいるのになあ。しかし、貴様とは顔あわすことがないなあ」
愛野は多祥への侮蔑を隠そうともせず、彼と目が合った途端皮肉を口にした。
このとき多祥は、自身を仰ぎ見ている位置にいる愛野に、なぜか見下ろされている
かのような感覚に陥った。
「どうだ、仕事の方は順調か?」
愛野は立ち尽くす多祥にはお構い無しに、ゆっくりと近付きながら皮肉を続ける。
「え?どうなんだ?」
そして多祥の立っている段にまで上ると、一度ハンカチで額の汗をぬぐい、一層
居丈高にそう言葉を発した。
「・・・まあ、ぼちぼちだよ。こっちは」
多祥はそう返すのがやっとだった。 すると、そんな多祥の心の奥底まで全てを
見透かしたように、愛野は最大級の嫌味を口にした。
「ほう・・・で、お前の仕事ってなんだ?」
多祥は思い切り怯んでしまった。だが必死になって、精一杯言葉を返した。
「・・・雑用だよ」
皮肉に対し皮肉で返したつもりだった。が、言葉にしながら、早くもその途上で、
多祥はそれが“卑屈”な言葉でしかないことに気付かされる。彼は、すぐに言わ
なければよかった、と後悔した。そしてそんな心情を自ら吐露するように、ドッと
彼の額からは汗が噴き出てきた。悟られまい、と思えば思うほど、まさに滝のよう
に彼の額は発汗し続ける。まるで自律神経が壊れてしまったかの如くに。
だがそんな多祥の心配をよそに、愛野はもう目線すら彼によこさず、彼をあっさりと
追い抜いていった。そして背中越しに、又も皮肉を口にした。
「ほう。一橋ってところは、キャリアに雑用の仕方を教えるのか」
次いで軽く右手を上げ、いよいよ嘲りを含んだ口調で愛野はこう締めくくった。
「変わった大学だな。東大ではそんなもの一つも教えてくれなかったよ」
多祥は、普段は心底に眠らせている強い自負と自尊の気持ちが、沸々と煮えたぎ
るのを全身で感じながら、それが今この瞬間暴発させぬよう、静かに目を閉じ、大き
くそしてゆっくりと呼吸をし、どうにか自身を落ち着かせた。
そして愛野が存在する気配が遠くに消えうせるのを待ってから、彼は額の汗を右手
でぬぐい、再び目的地に向かって、のろのろと歩み始めた。
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「もっと遠くにあればいいのに」
そんな多祥の気持ちとは裏腹に、彼はとうとうその目的地へと続く階段を上り詰めて
しまった。
そして本部長が待っているはずの彼の執務室の前に立つと、気持ち身なりを整え、
背筋をピンと伸ばしたあとひとつ咳払いをし、軽くドアをノックした。
ドアの向こうから乾いた声がした。
「入れ」
ああ、やっぱり居たか。いなきゃいいのに・・・。
「多祥、入ります」
彼は自らを奮い立たせるように、やや普段より声を張り、これもまた普段よりやや強
い調子でドアを開けた。そして勢いよく本部長の執務室に入ると、力強く一礼した。
「お呼びでしょうか」
頭を上げた瞬間、本部長と目があった。その眼差しは複雑にして怪奇なものだった。
その表情は、困惑しているようにも、怒りを顕わにしているようにも、はたまた微笑ん
でいるようにさえも見えた。
本部長は一体、この俺を呼び出して何を告げようというんだ?どこか遠い地への左遷、
じゃないのか?そうなんだろう。俺はアンタに呼び出しを喰らった瞬間から、とうの昔
に覚悟は出来ている。 あるいは、まあ、どんな“無能”も実際そうなんだが、キャリアな
ら誰しもそうであるように、この俺もご多分に漏れず、どこかの県警で、所轄の副署長
か何かの座におさまのか?
あるいは・・・俺の想像も及ばない何か特別な事態が待ち受けているとでもいうのだろ
うか?
多祥は本部長の顔色を伺いながら、ほんのわずかな時間に、ありとあらゆる思いがぐ
るぐると脳裏を駆け巡った。
そしてその回答は、誠に矛盾した表現だが、彼の「想像通り」、彼が「思いもしなかっ
た」ものだったのだ。
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執務室の奥にある豪華な椅子から腰を上げると、長田(ながた)本部長はそのやや
メタボぎみの体を大仰に揺すりながら、ゆっくりと多祥に近付いてきた。
そして部屋の中央あたりまで歩を進めると、今度は多祥に自ら近付いてくるよう目で
促した。
「多祥、貴様に重要な話がある」
多祥は戸惑いながらも、本部長へと近付いていった。そのときだった、彼の立ち位置
から向かって右側の部屋の奥のほうで、妙齢の女性が一人、ひっそりと立っている事
に気がついた。
多祥は思わずその女性の方へと顔を向けた。すると、その美しい女性は、うっすらと
笑顔を浮かべ、多祥に丁寧に会釈をしてくれた。多祥も一旦立ち止まり、彼女に軽く
会釈をした。ただ、彼女とは違い、多祥の表情は依然として硬いままだった。
目線を再び本部長の方に向け、もう一、二歩、彼に歩み寄ろうとした瞬間、本部長が
話し始めたので、多祥はそこで歩みを止めた。
本部長がこれから話そうとすることは、己の今後を左右するきわめて重要な内容を含
んでいるであろうことは、本部長から呼び出しを受けた瞬間からわかっていた。だが、
にもかかわらず、彼はどうにも、美しいあの女性の目線の方が気になって仕方がなか
った。
しかし長田部長は無論、そのような多祥の気持ちなど察することもなく、己のペースで
話しを始めた。
「貴様に、ある事件の捜査に当たって欲しい」
「は!自分にでありますか」
一応、如何にもきびきびと返事をしたものの、多祥は正直困惑した。繰り返しになるが、
本部長の口から出た言葉は、彼が「思った通り」いきなり意表をついたものだったのだ。
まさか自分が、現場の仕事を?しかも本部長じきじきのご命令ですか?
多祥は警察官としての本能から、思わず武者震いした。
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長田は、しばし沈黙した後、一つ小さなため息をつくと、再び話しを始めた。
「まず断っておくが、これから話す内容は完全な極秘事項だ。他言無用、などと陳腐
な言葉で受け止めないで欲しい。ひとたび捜査に入った瞬間から、貴様はその活動
そのものを完全に秘匿せねばならない」
もってまわった言い方だ、と多祥は思った。捜査活動そのものを秘匿せよとは、具体
的にどうしろってことなんだ?と彼はいぶかしがった。
「これは・・・恐らくは先例にないことなのだが・・・捜査に当たる人員は、警察関係者
からは貴様を除いてただの一人もいない。まあ、ひらたくいえば、貴様一人で捜査に
当たって欲しい、ということだ」
さすがにこの言葉は、多祥にとってもまったくの想定外だった。
「自分ひとりで・・・捜査をするのですか?」
多祥は思わず、長田部長に質問した。
こっけいな話だ。本部長の回答を待つほんのわずかな瞬間、彼はそう思った。そして、
彼は早合点から、本部長の真意を勝手にこう理解した。
ああ、なるほど。そういうことか。無理難題を押し付け、体よくこの俺をここから追い出
そうってことか。
多祥は、本部長がのたまった「捜査をしろ」との言葉に、一瞬たりとも自分の将来に
安堵し、同時に、どんな難事件であろうとも必ずこの俺が解決してやる、と決意した、
ほんの数分前の己に対し、やおら無性に腹が立ってきた。
だが、結論から言えば、それはまったくもって彼の曲解だった。 |
多祥のそんな心の中の独りごちなど知る由もない長田は、彼の質問にわざわざもって
回答したあと、さらに言葉を続けた。
「そうだ。貴様一人にやって欲しい。・・・ただし、一人といっても、それはあくまで“警察
関係者”に限定してのことだ。必要な人員は警察以外から協力を仰ぐことになっている。
だからその件に関しては心配することはない」
「警察以外・・・ですか」
多祥は無意識のうちに、一瞬部屋の片隅にたたずむ例の美女に目線をやった。彼女
の方も心得たもので、そのとき、しっかりと視線を多祥の方に向けていた。
「そうだ。貴様も察するように、あそこのおられる方が、今回、この捜査に協力してくだ
さる」
長田の言葉を受け、件の美女は又先ほどと同様にわずかに口元に笑みを浮かべ、多
祥に向かって深々とお辞儀をした。
多祥もまた、つられるように再び彼女に向かって頭を下げた。だがそのとき彼の心は、
つい先ほどとは逆に、まったく彼女の方に向けられていなかった。彼女に対する本部
長のバカに丁寧な物言いが、ひどく心に引っかかっていたのだ。長田はしかし、そのよ
うな揺れる多祥の心情などには、いささかも関心を払うことな、相変わらずのマイペース
ぶりで話を続けた。
「捜査に必要な経費も、あるルートから出ることになっている。警察とは一切関係ないル
ートから、な」
?・・・どういうことだ? 再び多祥の頭脳が、答えを求めてグルグルと回転を始めた。
だが・・・警察という官僚組織にとって、あまりに常軌を逸したその命令内容に、如何に
知恵を絞ったところで、的確な解答を導き出すことなど、残念だが今の多祥には不可能
であった。
だが彼はその直感で・・・良い言い方をすれば、思考や論理というものを超越した彼の
感性は・・・何かとんでもないことに、自分が巻き込まれつつある、というだけはしっかり
と認識できていた。
そして再び、彼は得意の推理を、その頭の中で巡らし始めた。
・・・そういうことか。察しがついたぞ。出世のことしか頭にないこの本部長が、あんな若
い娘に慇懃な言葉を使うってことは・・・この一件は、まちがいなく「政治」がらみだ!
え?そうなんだろう?オッサン!俺の耳にだって入ってるんだ!あんたが総監の腰ぎん
ちゃくだって周りからいわれていることぐらいな!
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そう、そもそもこのガチガチの「お役人」である長田部長の口から、「先例のないことだ
が」などと前置きした上で、自分に極秘の捜査命令を出すことなど、「政治的圧力」
でもない限りは、絶対にありえない話だ。
いや、圧力にもこの男は怯まない。そう「山とお役人は決して動かない」のだから。
むしろ有り得るのは、政治がらみの「旨み」だ。利に聡いこのオッサンが、組織の行動
規範を無視したこんな命令を下そうっていうんだ、利益がない限りは有り得ない。
恐らくこのオッサンは、懇意にしているお偉い先生に何か頼みごとをされ、その始末
をこの俺に押し付けよう、というのだろう。その結果得られる美味しい部分は、全部己
が独り占めするハラで。
さては、そのお偉い先生の愛人問題か?あるいはその息子が麻薬か何かで挙げら
れそうなのか?いや、もしかしたら表に出てはいけない金を、どうにかしろ、なんて無
理難題かもしれない。
「幸い、といってはなんだが、貴様は本庁でも“一匹狼”で通っている。だから貴様が
一見気ままな行動をとっても、他の連中もそれを気にも留めないだろう」
一匹狼?この俺が?俺がそんなかっこいいもんじゃない存在なことぐらい、あんただっ
て充分承知しているだろう?そんな間抜けな褒め言葉で、俺をおだててるつもりか?
それで俺が意気揚々と捜査に乗り出すとでも? 俺は何も好き好んで一人でいるんじゃ
ない!いわば村八分状態。そう、一匹狼なんかじゃなく、どちらかといえば俺ははぐれ
狼・・・いや、狼、とついただけで、俺にはどうにもピンと来ない。せいぜいはぐれプー
ドルか、はぐれミニチュアダックスフントあたりが関の山だ。
いいですか、本部長殿!自分はですね、餌をもらえなきゃ、すぐに死んじまうんだよ! |
長田は、最早不満と不信感を隠そうともしない多祥の事などまるで無視して、なおも一
方的に話を続けた。
「まずは彼女と一緒に、ある場所にいってもらう。そしてそこを拠点に、しばらくは活動
しろ。いわばそこが捜査本部というわけだな。だから、本庁には顔を出さんでもいい」
いよいよ多祥の顔が不機嫌になった。本部長も、ここに至りようやく、ほんの僅かばか
りではあるが、多祥に気遣う素振りを言葉にして表した。
「心配するな。貴様が本庁に顔出さんでもいいように、然るべきところには、きちんと自
分が手回しをしておくから。貴様は心置きなく捜査に打ち込め」
多祥はこの言葉を受け、その脹れた面を、どうにか上司に対面する際の部下に相応し
いであろう面持ちに、辛うじて戻し、長田に質問をした。その際、多祥は自分に、これは
あくまで業務上必要なのだから、と言い聞かせた。
「本部長殿。その捜査内容については、ここでお話いただけないのでしょうか?」
よくよく考えてみれば、本当にバカバカしいことなのだが、これだけの事を聞くのに、少
なくとも多祥には、ある程度の勇気を必要とした。もし質問しても答えてもらえなかった
ら・・・例えば、その本部長が言うところの“捜査本部に行ってから”でないと、その内容
を聞かせてもらえない・・・等ということであれば、益々もって、この捜査が厄介なもので
あろうことが、ここで決定的になってしまうからだ。
だがそれは杞憂に過ぎなかった。本部長はこの質問にはあっさり回答してくれたのだ
から。
しかしだからといって、それが、捜査内容は簡単である、等ということは決して意味しな
かったのだが。 |
いよいよ長田部長は、その極秘の捜査内容について触れた。
「貴様に捜査して欲しい一件というのは、例のアルファオアシス・グループの御曹司、飛田
(とびた)高志氏の“自殺”についてだ」 多祥は一瞬拍子抜けした。
なんだ、まともな捜査じゃないか。
政治家の不始末をもみ消せとか、そういった埒外の難問を押し付けられるとすっかり思い
込んでいた多祥は、その内容に少し安堵した。が、すぐに冷静になって考え直した。
巨大な企業グループの御曹司が遂げた「謎の死」。当然、どんな素人だって「裏があるに
違いない」と思うケースだ。そしてそれを秘密裏に再捜査しろなどというのだから、実際か
なり大掛かりな陰謀が渦巻いている可能性がある、ということだ。しかも尚厄介なことに、
この一件は、世間の耳目を集めている極めて大きなニュースだった。マスコミも当然事件
を追っている。これを秘密のうちに捜査しろとなると・・・
多祥は想像しただけで疲労を覚えた。
「まだ発表していないが、警視庁はどうやら自殺と断定したようだ。が、この飛田高志氏の
ある関係者が、どうしてもその捜査結果に納得がいかない、とこちら(警察庁)に直接訴え
てきたのだ」
ああ、それが代議士の先生ってわけですね。で、そこにいる美人はその秘書ってわけか。
なるほどね。
飛田高志が亡くなってまだ五日しかたっていない。にも拘らず警視庁は早くも“自殺”と断
定した、との噂が既に国会議員にまで漏れ伝わっている。そしてそれに対する次の一手が
既にこうして打たれている訳だ。事態は最早空中戦に入っている可能性すらある・・・。
多祥は又得意の独りごちで、心の中で勝手に結論を導き出していたが、あえて形式的な
質問をした。
「それで、その関係者というのは、一体どなたなのですか?」
「その前に、多少補足すると」と本部長は前置きした上で答えた。
「亡くなった飛田氏は、内閣の諮問機関である経済改革推進実行研究会のメンバーだった
のだが、彼は生前、経済改革、政治改革に非常に積極的かつ能動的な人物だったそうだ。
元々あれだけの企業グループの御曹司だったわけだから、政財界の人脈も相当のものだ
ったらしいのだが、彼はとりわけ、その研究会のメンバーとは懇意にしていたんだそうだ。
そして、彼の理念と行動力を高く評価していたのが、その研究会のチェアマン、江藤 寛氏
だった」 |
江藤 寛。
多祥はその名前に聞き覚えがあった。だが、記憶をたどってみたものの、定かな答えは
浮かばなかった。
「えとう・・・ひろし・・・?」
「江藤氏は高名な経済学者で、現在は京葉商科大学の学長を務めていらっしゃる。彼は
いわゆる規制撤廃論者だ。更なる経済の自由化こそが我国が生き残る唯一の手立てだ、
というね。で、その江藤先生を師事し、彼の理念を実行しようとしているのが、四師谷(しし
たに)厚生大臣だ」
ようやく本部長の口から、核心に迫る人物の名がでてきたな、と多祥は思った。
四師谷は最早沈没寸前の与党にあって、唯一人の人気政治家といっても過言ではない
人物だ。国民の支持という点では、次期与党総裁候補の最右翼であり、世論調査では、
常に首相になって欲しい議員ナンバーワンの座にいた。が、いわば政界のそれこそ一匹
狼的な存在だったため、同僚の国会議員たちからは変人呼ばわりされ、その国民の圧倒
的な支持とは裏腹に、総裁選に出馬しては、いつも落選の憂き目にあっていた。
「この四師谷厚生大臣、そして江藤先生が、今回の捜査の、いわば直接の依頼者、という
ことになる」
・・・やはりそうか。
で、その先生方のお願いを聞くと、あんたには一体どんな旨みがあるんだい?
まさかその顔で国会に打って出ようとでも思っているのか? 多祥の顔に、再び不満と不信
が色濃く表れだした。
「あとは、そこにおられる江藤先生のお嬢様から直接聞いてくれ。“捜査本部”に向かいが
てらにでも」
そういって、長田本部長はその目線を例の美人の方に向け、一礼をした。つられて多祥も
彼女のほうに視線を向ける。
目が合うと、彼女は多祥に向かって又も丁寧にお辞儀をした。
「江藤の娘で、典子と申します。多祥刑事、どうかよろしくお願い致します」
彼女が始めて口を開いた。優しさがにじみ出るような、爽やかでとても耳障りのよい声質だ
ったが、同時に、その奥底に秘めた意志の強さのようなものを感じさせる、凛とした響きも
感じられた。
「多祥小太郎と申します。こちらこそ、よろしくお願い致します」 多祥も三度、彼女に向かっ
て一礼をした。そして次に警察官として、右手を額に当て、彼女に向かって敬礼をした。
ああ、まるで催眠術にでもあったようだ・・・。
結局否も応もなく、多祥は唯々諾々と命令に従う羽目になっている自分がいることに気が
ついた。 |
*
*
*
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よくよく考えれば、これは捜査なんて代物じゃない。無論、令状一つない。ただ本部長の
個人的な「道楽」につき合わされるだけだ。
いや・・・そもそもこれは長田本部長の“道楽”なのだろうか?
考えてみれば、そうだ。政界の大物と、学会の大物。この二人とあの長田が懇意にして
いるなどとはとても思えない。
多祥は、招かれるままに江藤典子の車の助手席に腰を下ろすと、ふとそう思った。
そもそも事件が起こってまだ五日しかたっていない時点で現職大臣やその関係者が未発
表の捜査結果を入手しているとしたら、彼らと警察内の一部に、かなり濃密な関係が築か
れている、と考えるのが自然だろう。
しかし・・・だとしたら、なぜ俺に、俺一人に、白羽の矢が立ったのだろうか?
多祥はシートベルトを付けながら、あらためての自己紹介をかね直接問うた。
「江藤さん、あらためてよろしくお願い致します。・・・ところで、一つ質問をしたいのですが、
典子さんのお父様と四師谷先生のほかに、この捜査についてご存知なのは、いらっしゃる
んですか?・・・あ、無論、本部長の長田も含まれますが、例えば、長田のほかには警察
関係者でこの件について知っているのは・・・」
典子は恐らく多祥の気持ちを汲んだのだろう。もってまわった質問をしたにも拘らず、彼が
一番聞きたいことを開口一番話してくれた。
「警察関係者でこの件について知っているのは、多祥さんと長田さんの他は、警視総監し
かいないはずです」
け、警視総監?!
多祥は、さすがに面食らった。先にあげた二人の大物と懇意にしている可能性がある人物
が・・・推測すれば、警察のかなり上の方、であるには違いないとは思ったものの・・・まさか
それが警察組織の最上位に位置する人だとは!?
いや、それこそが道理が通っている、ということは勿論理解できる。次期首相候補とそのブ
レーンが、捜査の洗い直しを裏から手を回そうって相手が警視総監、という話そのものは。
それにだ。長田本部長は、周囲から警視総監の太鼓持ちとまで揶揄されている男だ。それ
らの相関関係を色眼鏡無しで足し算すれば、これはたしかにそれほどとっぴな話ではない。
だがそうはいっても、現職の大臣→警視総監→警視長(方面本部長)→俺、というつながり
が、どうにもこうにも現実感が伴わない。
多祥はあらためて思った。
ああ、俺は今、とんでもないことに巻き込まれつつある。いや、もう完全に巻き込まれちま
ったんだ、と。
「こちら側では、父と私のほかには、父の助手を勤めている大学院生数名しかいません。そ
して恐らく、四師谷先生の方は、先生ご自身のほかには、先生の公設第一秘書をなさって
いる高島さん、くらいだと思います。何しろ先生、変人ですからね」
そういって、典子が笑みを浮かべながらペロッと下を出した。
多祥は、そんな彼女の愛らしい仕草に、ほんの少し心が和んだ。 |
まだ午前中だというのに、今にも降り出しそうな曇天のせいで、車窓から見える街並みに
は、あたかも夕刻が迫っているように感じられた。都心を抜けるとすぐに、典子が運転する
ミディアムシルバーメタリックのキャブワゴンは渋滞に巻き込まれた。
「タバコはお吸いになりますか?」
すかさず典子が多祥に気遣いを見せてくれた。
「いいえ」
多祥がそう答えると、典子は束の間、安堵の表情を見せた。
どうか、そんなにお気遣いなさらないで下さい。 多祥はそう言葉にしようと思ったが、なんと
なく言葉を呑んでしまった。
ああ・・・渋滞もたまにはいいもんだ。こんな美人と狭い空間に二人きりで閉じ込められてい
るなら。 これがもしあの愛野だったら・・・。
多祥は折角の気分を、自らの余計な想像力でぶち壊してしまった。
「道・・・混んでますね」
「・・・ええ、そうですね」
あとどれくらいで目的地には着くんでしょうか?そもそも目的地、ってのはどこなんです?
多祥はそう聞きたいところだったが、ぐっと堪えた。この美人の前では、こまかいことを気に
しない男でいたかったからだ。しかし一方で、このまま会話が途切れてしまうのも、空気が
重くなりそうなので避けたかった。
多祥は考えなしに、捜査についてあれこれと質問しだした。
「長田からもある程度の話は聞きましたが・・・極秘の再捜査を要請したいきさつを、あらた
めてお聞かせ願いますか?」
典子は「ええ」と即座に返答したあと、しばし黙考し、やがて静かに言葉を選びながら、話を
始めた。
「経済の新たな発展を阻害しているの最大の要因は、既得権益者を守るためにのみ存在し
ている多くの規制です。これを撤廃し、自由な経済活動を促すことが、この国の未来を明る
いものにする、というのが父の持論です。この意見に、多くの若い企業家達が賛意を示し
てくれました。中でも、最も積極的に支持してくれたのが、亡くなられた飛田氏でした。父が
座長を務める規制撤廃に向けての研究会にも彼は参加しました。父曰く、飛田さんはバイ
タリティに溢れ、非常に精力的な人物だったそうです。性格は前向きそのもの、いい意味で
の楽観主義だったとのことです。それに、何より奥さんとお子さんを大切にする家庭人でも
あったそうなんです」
「・・・なるほど。自殺する理由どころか、むしろそこから最も遠い人物だったわけですね」
・・・でも、人ってのはわからないものですよ、お嬢さん。まさかあんな人がこんなことするな
んて・・・よく聞く話でしょ?
残念ながら、警察にいると人を疑い深くなってしまってね。でもね、そういう、一見明るく前
向きな人に限って、かえって心の闇も深かったりするものなんですよ。 |
「正直・・・お父様は、疑っている人物はいるんでしょうか?飛田氏を殺害した犯人・・・を」
「それは・・・」
典子は不意に多祥が核心を付いたので言葉に詰まったようだった。 しかし、ここで彼女が
思わず漏らした言葉に、多祥は一つ重要な解答を得ることになった。
「飛田さんを・・・飛田高志さんのことを快く思っていない人物は、彼が持つその溢れる改革
精神が故に大勢いました。規制に撤廃する既得権益者たちは無論そうですし、又それとは
別に、飛田家内の複雑な人間関係が、正直、要因になった可能性も否定できません。いず
れにしろ、それらに関するこまかい資料を大学にご用意していますので、その話は大学に
着いてから、あらためて」
大学?・・・そうか、大学か。なんだ、本部長がもったいぶって目的地を言わないから、もし
や政治家の隠れ家か何かと思っていたが・・・ま、別に期待してたわけでも、ビビッていた
わけでもないが・・・大学ね。
「大学・・・お父様が学長をなさっている?」
「ええ・・・私の研究室です。そこが長田本部長がおっしゃるところの捜査本部です」
そういって、又も彼女が例の笑顔を見せてくれた。
多祥は、彼ら改革派が、極秘裏に再捜査を依頼した理由が理解できたような気がした。
飛田氏の死は、いわば江藤や、四師谷議員に向けられた“警告”の可能性がある。改革を
反対するいわゆる守旧派による、恫喝、といっていもいい。 もし我々の既得権益を本気で
破壊しようというなら、お前らの命もないぞ!という、きわめて古典的だが、最も効果のある
やり方だ。たしかに、それを考えれば、彼らが飛田氏の死因をしっかりと把握しておきたい
理由もわかる。仮に警察の発表どおり、本当に飛田氏が自殺を遂げていたとの確証を得ら
れるか、少なくとも、殺害を命じた人物を特定できる手がかりを得ない限り、彼らも枕を高く
して眠りにつくことは出来ないだろう。
あるいは、今彼女がいった「飛田家内の複雑な人間関係」が要因であれば、彼らは安堵で
きるわけだ。
「それにしても、道、混んでますねぇ」
「ええ・・・ごめんなさい」
「あ・・・いえ、あなたが謝ることじゃあ・・・」
ああ・・・俺、又余計なこといった・・・。あ〜あぁ・・・。
結局、多祥はこの美女の前に、自らがこまかいことを気にする小人物であることをさらけ出
してしまった。 |
車内には気まずい雰囲気が漂い続けていた。その後二人は会話らしい会話も出来ない
まま、小一時間が過ぎた。そしていくつかの河川を超え、東京の東の外に出て十数分後、
遂に車は目的地に到着した。
「多祥さん、ここです」
相変わらずの気遣いで、典子が微笑ながら多祥に声をかけた。
「ここが、お父様が学長をなさっている大学ですか」
多祥も、この気まずい空気からやっと開放される、との安堵感から自然な笑顔を彼女に
返すことが出来た。
結果皮肉なことに、二人を包む空気は、車外に出る段になって、ようやく自然なものに戻
れたのであった。
駐車場はキャンパスの北のはずれにあった。秋の訪れは近いはずなのだが、あたりの
木々は、いまだ盛夏を謳歌するように青々と生い茂っていた。
学生の姿はキャンパス内には殆ど見受けられない。後期の授業が始まるまで、まだおよ
そ1週間ばかりあった。
「暑いですね。今日も」
典子が道案内をしながら、そう呟いた。
「雨も降りそうですし」
多祥は天を見上げた。空はいよいよ黒雲に覆われ、まさに今にも泣き出しそうな雰囲気
である。それでなくとも我国特有である夏の湿気を含んだ空気が、どこにもかしこにも淀ん
でいるというのに、この曇天のせいで、益々もって逃れようのない蒸し暑さが、全てを侵食
し尽くすかのように、刻一刻と増長し続けているのを感じた。 |