『どろくま』と呼ばれる男がいた。
身の丈は六尺五寸を超え、鍬を振る腕は切り倒したばかりの丸太のよ
うに太く、蔓が巻き付くがごとく血脈がはい回っている。そこから切り
株のように頑健な首につながる肩の稜線は、鍛え上げられた筋肉の山が
連なり、なすがままに伸びた髭をたたえる顔は、肉に埋まるように部位
が全て中心に集まり、唯一鋭角的な線を描いた細い眼が獲物を求めて常
に鋭い視線を放ち続ける。
荒縄にも似た衣からはみ出した肌は、何層もの斑を作りながら赤黒く
陽に焼けている。それが畑に立つ姿はまさに泥沼に戯れる熊。言い得て
妙であった。
村人はみな泥熊を蛇蝎のごとく忌み嫌っていた。その傍若無人な振る
舞いは、狭い村に住む民の殆どをことごとく打ちのめしていった。
ある者は収穫間近な畑の実りを一夜にして踏み潰され、またある者は
焚き火代わりに焼かれた我が家が目の前で崩れ去るのを為すすべもなく
見送った。
外で目が合った女は、ほぼ歳の区別無く畑に連れ込まれては、濁った
欲望の餌食となった。中には、女の性に逆らえずに、自ら刺激を求めて
泥熊を誘惑したり、日の暮れるまで泥熊の周りをひたすらうろうろと歩
き回る者までいた。だが、不思議と泥熊はそんな女達を手に掛けようと
はせず、彼の要求を拒み、泣き叫ぶ女だけを巧みに嗅ぎとった。
泥熊にとって、獲物の顔が屈辱に歪むことこそが目的であり、自身の
性欲など二の次でしかなかったのだ。
泥熊に対する憎しみは村全体に広がっていたが、誰一人として口に出
して顕すものはいなかった。泥熊は村長(ムラオサ)の息子だったの
だ。
村長は、その仁慈に満ちた行いにより、民の信頼を一身に受けた領袖
であり、その息子が如何な悪業をはたらこうと、それが揺らぐことはな
かった。
尤も泥熊自身の生い立ちは決して恵まれたものではない。四男坊の彼
が生まれたとき、村長の正妻はすでにこの世にいなかった。実の母親 は、
村長の屋敷の奉公人の一人であったが、病で床にに沈んだ正妻の目を盗
んでは、言葉巧みに村長に取り入り泥熊を身籠もった。が、それを妬ん
だ家中の者たちにいじめ抜かれ、予定よりも早く泥熊を産み落とすと、
我が子の顔を見ることもなく息を引き取った。母にとって、泥熊を産む
ことは己が野望を果たすための手段に過ぎなかったが、結局は我欲の為
に死期を早めた。
望まれぬ“業”の申し子を、家中の誰一人として生かそうとは考えな
かった。が、ただ一人反対したのは村長自身だった。
どんなに周りが『禍を招くから』と説得しても、村長は頑として聞き
入れようとはしなかった。
「責は我にあり。どれ程の業を背負ったとしても、赤子には罪のかけら
も無し」と言い放ち、泥熊を『坊』と呼んで溺愛した。しかし、これが
村長にとって懊悩の晩年を招くこととなる。
兄姉達は、泥熊を“妾腹”と蔑みいたぶることで母を失った悲しみを
癒した。村長が留守の間、泥熊を哀れみ救いの手を伸ばす者など家中に
は誰一人いない。村の者達でさえ密やかに泥熊に失笑を浴びせた。
やがて成長した泥熊は、自身を傷つけた者たちへの恨みを糧にするよ
うに屈強な体躯を手に入れた。日ごと強いられた雑用もすべて鍛錬の助
けとなり、泥熊を鍛え上げた。こうして村一番の大男となった泥熊の手
に掛かり、なるべくして村は荒んだ様へと変貌していったのだ。
村長は、毎日のように村のどこかで頭を下げるようになった。背を丸
めて詫びる村長の姿に、村人達は口をつぐむしかなかった。
とはいえ、村長も黙って泥熊を捨て置いたわけではない。泣きながら
泥熊を折檻し、蔵に閉じこめたことも数知れずあった。だが、そんな親
の心でさえも泥熊が受け続けた屈辱の数々を癒すことはなく、ほとぼり
が冷めれば、また泥熊は悪行を繰り返した。
だが、あらゆる悪事をし尽くした泥熊も、ついに村長の助けを失うこ
とになる。
ある日、泥熊の噂も知らぬ隣村の長の娘が、好き合った男と逢い引き
の帰り道で泥熊に犯されたのだ。
娘の不貞への怒りも手伝って、隣村の長は泥熊を引き渡すよう迫って
きた。
村長は、今度こそ覚悟を決め、『他人の手に掛かるより自身の手で』
と、泥熊を家から追い出し、村人に報復を許した。
鈎の外れた村の男達が泥熊に一斉に襲いかかるのを村長はじっと見つ
めていた。
「殺すな」それだけが村長の言葉だった。
怒りに任せた村の男達に袋叩きにされながら、泥熊は村長を見つめ返
した。
『何故俺を生かしたのだ?』
泥熊は無言で父に問うた。
『責めるなら責めよ。だが断じて過ちなどではない』
村長は見続けることで答えた。
『殺してくれ』
『殺さぬ』
打ち倒された泥熊がその場を離れるまでに一昼夜を要した。その間、
村長も微動だにせず見守り続けた。我が子がいずこへと去っていく様を
目をそらすことなく受け止めていた。
『生きるのだ。お前はまだ“命”の意味を知らぬ。お前はたった今生
まれたのだ』
泥熊は、満身創痍の体を引きずりながら歩いた。ゆっくりと歩を進め
ながら、泥熊はかつて味わったことのない安らぎを感じていた。
“二度と里に下りることはない。もう兄姉や奉公人達の刺すような視線
に脅かされず済むのだ。畑仕事をしながら、背中に感じる悪意や憐憫が、
この胸の孤独を毛羽立たせることもない。そして何よりも、あの優しい
父を苦しめることもない。だが、流れ落ちるこの涙は何を意味している
のか? 嗚咽は何を求めて溢れるのだ? 行くあてもなく、生きる術も知
らずにいる俺は何故自ら命を絶とうとはしないのだろう。この先に何か
あるのか。この世に生まれた意味を悟る日が来るというのか。判らぬ、
何一つ判らぬ……”
よろめき歩く泥熊に、肩を貸す者はいない。それは泥熊自身が招いた
報いに他ならない。泥熊は村の北にある山の中へと姿を消していった。
こうして村は再び安息の日々を迎えた。平凡な日常は、村人達に、泥
熊の噂を無理に避けようとすることさえ忘れさせていった。
数年の時を経て、村長は人生の終焉を迎えようとしていた。不幸な晩
年であった。泥熊が去って以来、村長は決して笑うことがなかった。
家族や親しい人に囲まれながら、忌の際に彼が求めたのも泥熊だった。
「坊、坊よ。こっちに来い。膝に座れ。坊よ……」
哀れに思った者たちが、最後の望みを叶えようと泥熊を探しに山に向
かった。十数人の連中が山の中を探し回り、やせ細り鬼神と化した彼を
ようやく見つけだしたが、泥熊は拒み続けた。
「今さら行ってどうなる?」
「父の死に目に何も感じぬのか?」
「知ったことではない」
それでも、村人の必死の説得に泥熊はようやく首を縦に振った。卑屈な
笑いを浮かべた泥熊が出した条件はたった一つ、『酒をたらふく飲ませ
ろ』というものだった。無理矢理抱えるようにして、村人が泥熊を連れ
帰ったとき、村長はすでに事切れていた。
泥熊は腹を抱えるようにして笑った。
「やはりこ奴は鬼よ」誰かが言う。それを聞いた泥熊は、また一際大き
な声で笑ってみせた。
通夜が始まり、年老いた坊主の読経が屋敷中に響き始めた。通夜に集
まった村人は皆、生涯村のために尽くした村長のために眼を閉じ冥福を
祈っている。その間も、泥熊は酒を喰らい、その身をもてあましてい > た。
ふと、経を読む坊主に目を向けると、一匹の蚊がその頭に留まっている。
やがて蚊はどこかに飛び去り、剃り上げた坊主の頭に小さな赤い山が
出来た。泥熊は笑いをこらえるようにまた酒をあおった。
泥熊が二度目に坊主を見たとき、その頭を一匹の蠅がせわしなく這い
回っていた。が、やはり坊主は穏やかな笑みを浮かべて経を読んでい る。
「この坊主も随分と草臥れたもんだ。頭の蠅も気にならなくなるとはな」
すると今度は、大きな蜂が坊主に頭に留まり、鋭い針を立て始めた。
だが、坊主は経を読むのをやめないどころか、表情、声色一つ変えずに
いる。現に、目を閉じ読経を聞く村人の誰一人としてそのことに気づき
はしない。
泥熊は、今度はその目を逸らすことができなくなった。
『蚊の刺した跡はどれほど痒かろう。動き回る蠅はどれほど煩わしかろ
う。そして蜂の刺す痛みは、もはや動ぜずに居れるわけがあるまい…』
『この目の前にいる一介の老いぼれは、経を読むことに没頭し、蜂に刺
された痛みさえ感じずにいるのか。
否、そうではない。この老人は、僧侶としての務めを全うする為なら、
如何な障りが我が身に降りかかろうとも耐えることが出来るのだ』
この世に生を受けて以来、決してほどけることのなかった泥熊の心を、
いま、一人の老僧がひと節の説教をすることもなく解かし始めた。
『果たしてこの老僧はどんな艱難辛苦を経て、ここまで聖人となりえた
のだろう。何がこうまで人を突き動かすでのあろうか』
泥熊の心中に、様々な想いが訪れては去って行く。かつて感じたこと
のない戸惑い、疑問、恐れ。それらは思うさま泥熊の心を波立たせ、揺
さぶりかけてゆく。それは泥熊が初めて自身以外の存在に思いを馳せた
瞬間でもあった。
めまぐるしく、悪戯に移り変わるかに思えた思考の波は、やがて渦巻
くように泥熊の心を一つの方向に導いていった。
『傷みだ。傷みや悲しみが、それに耐えることこそが、あしたを生きる
力と代わり、他人に施すゆとりにまで膨らみ、そして、その為の縛りが
“只の命”を人としての高みに昇らせるのだ』
泥熊はその時“命”の意味を知ったかもしれない。
~人というものは、信ずるもののために身を削ることさえ厭わぬ。それ
こそが『人生』であり、『命』そのものなのだ。
泥熊の心の中に重く澱んでいた闇が、まるで枯れ葉が風に返されるか
のようにめくれていく。
『思えば、数多の悪業を繰り返した俺がたった一つやらなかったことが
ある。命を奪うことだ。堪えたわけではない。それだけは、いつも思う
にも及ばなかった。そして……、それを今日まで守らせてくれたのは、
おそらく“父”だ。神も己をも信じられぬこの俺が、唯一信じられたの
が“父の笑顔”だった。それが俺に縛りを与えてくれた。生きるための
縛りを俺は守り続けた。俺は生きていた!人として生きていたのだ!』
泥熊は、全身から血がたぎるのを感じた。と同時に、身震いする程の
喜びを噛みしめた。
『俺が背負った業など、我が父の情愛に敵うものではなかった。この命
は偶然涌いて出たのではない。大いなる摂理に固く守られたものだった
のだ』
そのとき、ふいに泥熊の鼻先を獣の臭いがかすめた。村人は誰一人と
して気づかなかった。しかし山暮らしの長い泥熊にとってよく知ってい
る臭いであった。
『山犬だ!』
泥熊は、開け放した扉の向こうに拡がる闇にじっと目を凝らした。
宴の匂いに誘われた獣たちの鋭い眼光が、生い茂る木々の中で刺すよ
うにこちらを窺っている。
泥熊はやおら立ち上がり、微塵の迷いもなく闇に向かい進んでいく。
その眼は一点の曇り無く輝き、全身は強く脈打ち、使命感に打ち震えて
さえいる。
『我が生はこの為にあり。この刹那のための命なり』
泥熊は、ゆっくりと屋敷を出ると、おもむろに左手の小指を噛み千切
り、切り口から溢れる血を辺りにまき散らした。山犬たちの狙いを全て
自分に向けさせ、あの名も知らぬ老僧を助けるために。そして、かつて
数多の苦しみを与えても、決して父を裏切らなかった村人達を助けるた
めに。
山に向かって歩いていく泥熊の後を、山犬たちは静かについていく。
やがて、彼らは深い闇の中に消えていった……。
和尚の読経が終わり、村人達が目を開けると、泥熊の姿は消えてい
た。
村人達は、浄めの宴を始め、村長の思い出話に花を咲かせた。
「まったく情のかけらもない奴だな」
「今頃山に戻ってかすめ取った酒でも喰らってるんだろう」
酒が入ると皆、泥熊についての悪口雑言を交わし続けた。が、やがて
泥熊の名を口にする者も誰一人いなくなった。
終わり |
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