原作・平 盛文
無料オリジナルネット小説
王家の墓標
Episode46(08,6,7)
思考の世界での多祥の甘い追及に対し、飯田がそれとは知らずに、その認識不足を暗
に指摘しはじめた。
「男爵か。そりゃあ、霊峰大寺にしてみれば不満が残ったろうなぁ」
なぜ?
多祥が反射的にそういおうと思った刹那、一瞬早く典子が、飯田の言葉に反応した。
「そうなのよ」 ? 多祥の疑問は益々深まった。というより、尚一層、その回答に強い興
味を抱いた。
頼むから、もったいぶらないで説明してくれよ!
しかし、なんとなくそう聞けない自分がいた。自分が無知であることを曝け出すような気
恥ずかしさを感じ、思わず言葉を呑んでしまったのだ。はっきりいって、こういう態度は
デカ失格だ。
「なにせ、霊峰大寺家はもとはといえば羽林家の一つに数えられた家柄でしょ。本来
だったら華族制度の下では伯爵家に列せられいたわけだからね。それを大枚をはたい
たにも拘らず、結局どうにか手に入れることが出来たのが、二つも格が下の男爵家の、
しかも部屋住みのお婿さん、だった訳だからねぇ。・・・まあ、同情というか、う~ん、共
感は出来ないけど、彼らにしてみれば大いに不満が残ったことも理解できないでもな
いわよね」
しかし、待てば海路の日和あり、である。 結果的に多祥の基礎知識の欠落を、典子が
それを察してか否かはわからないが、全て補ってくれた。
「・・・その、“うりんけ”というのは、普通だったら皆等しく、伯爵になれた?んですか」
果たして、多祥はそれを典子の気遣いと受取ったのか、やっと踏ん切りがついたよう
に、そのつまらない体面を捨てて、彼女に本来すべきだった質問をここで漸く切り出す
ことが出来た(そもそも、このような事柄など、普通詳しい人の方が少ないわけで、彼が
なぜこの件に関し見栄を張ったのか、多祥自身よくわからなかった)。
「ええ。明治に至るまで、貴族の中の“羽林家”と呼ばれた各家は、維新後、基本的に
は皆、新に発足した華族制度において伯爵に列せられました。だから選から漏れた霊
峰大寺家の人々は、恐らくはもともとの家格にあった伯爵家以上の家柄のお婿さんを
なんとしても欲したことでしょうねぇ」
なるほど。 これで漸く多祥にも合点がいった。
公・侯・伯・子・男。確か日本史の授業で習った爵位の順序はこうだったはずだ。ま
あ、家柄に固執する連中からしてみれば、伯爵が男爵では天と地ほどの差があるの
だろう。
しかも、そのお婿さんは“部屋住み”とのことだ。つまり彼は、男爵家の跡取りではなく
(恐らく、三男坊だか四男坊だかなのだろう)、彼が長じたところで、待てど暮らせど、
決して爵位を得ることはないわけだ。
しかし、それでもそのときの霊峰大寺家は、“爵位”というものに少しでも近付きたか
ったのであろう。だがやはり、結果が出てみて   つまり霊峰大寺家は決して華族に
はなれない、という事実に直面して   あらためて厳しい現実を噛み締め、自分達を
納得させることが出来なかった、というわけだ。
「それで、その後はどうしたのですか?彼らは」
「ええ」
頷いて見せた後、典子は一瞬目線を左斜め上にふり、ほんの数秒、間を置いてから多
祥の問いに答えた。
「結局、彼らは遂に家柄にしがみつくことを、この一件で諦めたようです。散財したにも
かかわらず、成果は微々たるものだったわけですからね。・・・それに、この婿取に彼ら
は掛けていましたから、お金も底をついてしまったみたいで、状況的にも、まあ、諦め
ざるを得なかったようです」
「そうですか・・・」と多祥はさらに納得したように頷いた。
そして彼はしばしばやらかすいつものクセで、頭の中で物事を反芻し吟味するより先
に、考えをそのまま素直に言葉にした。
「きっと、霊峰大寺家の人々はそれで悟ったんでしょうねぇ。時代がすっかり変わってし
まったということを、あらためて。そして、自分達がすすむべき道を・・・新しい時代に適
応して行くには、なにが大事で、そしてなにが自分達に真に必要なのか、ということを
きっと学んだんでしょう」
「そうです。霊峰大寺家の人々はこの一件で一つの解答を得ました。彼らなりの」
典子が多祥に同調した。
「以来彼女達は、別の形での“お家再興”を目指すようになりました。得ようとしても得ら
れなかった、その最大の“理由”が、霊峰大寺家の新たなる命題に変わった。 ・・・一つ
は、おカネです。彼らは以来、とてもお金に執着するようになったのです」
悲しくも陳腐な結論だった。
しかしそれは同時に、誰もが避けて通れない永遠普遍のテーゼであることも又事実で
あった。
多祥は無意識のうちに、一つ大きなため息をついた。
「また、彼らはお金とともに、もう一つ重要な案件を見出しました。それは薩長土肥とい
う新に台頭した閨閥でした。彼らはこの二つを手に入れることこそ、新たな時代に適応
していくために必需品と考えたようです」
「・・・それで、霊峰大寺家の人間は、具体的には何をしたのですか?」
この多祥の当然の問いに対する回答は、間接的にではあるものの、以外にも彼に、
非常に重要な関わりを持っていた。
「はい。重複になりますが、彼らはこの“婿取り”の過程で、お金とともに・・・自分達に
致命的に欠落しているものを再認識させられました。それが、薩長をはじめとする新政
府の中で隠然たる力を持っていた、かつての西国雄藩という新興勢力とのコネクション
でした。実は、霊峰大寺家は西国雄藩が台頭し始めた幕末の政局混乱期に、より積
極的に親幕府派の立場を取ったのです。そもそも華族になれなかったのも、それが響
いた可能性も強いのですが・・・とにかく、それがもともと起因して、明治以降も尾を引
き、彼らは官軍側に頼るべき縁故がまったくといっていいほど無かったのです」
多祥は話を聞きながら、こまかく、そして何度も頷いた。
「それでは・・・当然といえば当然ですね。いくらカネをばら撒いても、薩長勢力に味方が
いないのでは・・・というよりか、賊軍に加担した過去を持つ家柄では、まあ、何をどうし
ても華族になることは叶わなかったでしょうねぇ」
「ええ、その通りです。実際、華族を構成するメンバーの有力な部分に、かつての貴族
とともに薩長勢力が大勢いたわけですし、そこに親幕府派の旧貴族が仲間入りしようと
しても、おいそれとは行かなかったことは想像に難くありません」
一見うがっているようだが、しかしこの典子の意見には注釈が必要である。というのも、
かくいう賊軍の総大将である最後の江戸幕府将軍・徳川慶喜その人が、毛利氏、島津
氏ら官軍の総大将や、かつての貴族の最上位にいた五摂家(近衛家、鷹司家、九条
家、一条家、二条家)等とともに、華族の最高位である“公爵”に列せられていたからで
ある。
又、慶喜公に限らず、かつて“賊軍”のレッテルを貼られた多くの幕臣たちが、実は新政
府の要職についており、かつ華族の仲間入りをしていたのである。
逆にいえば、それほど霊峰大寺家は、おおいなる“貧乏くじ”を引いた、という証明にも
なるわけではあるのだが・・・。
「そこで霊峰大寺家の人々は、華族入りを諦めた後も、明治政府下で家名を保ち、かつ
少しでも浮上するためにも、あらためて彼ら旧西国雄藩出身者との強い絆を築く必要が
あると痛切に感じました。 しかし、今もいいましたように、彼ら西国雄藩出身者の中で
も、特に有力者達は新たな特権階級である華族入りを果たしていました。そもそも彼ら
に縁故があれば苦労をする必要もないわけで、これは如何ともし難い。で、彼ら霊峰大
寺家の人々が考えたのは、旧薩長土肥出身者の中でも比較的身分が低く、つまりは華
族入りを果たせず、なおかつ明治政府の要職についているものや、経済的に成功を収
めた者達に取り入ることでした」
果たして、そんな都合の人物がいたのだろうか?と多祥は思った。
西国雄藩出身の下級武士の中には、維新後上京なり上阪なりして、それは多少なりと
も経済的に成功したものも沢山いただろうが、果たしてそれらに繋がったところで、彼ら
は満足できたであろうか?
それともそうした中から立身出世した大立者が、それこそ都合よく存在していたのであ
ろうか?
多祥はその辺のことについて正直疎かったが、実際そのような人物は存在していた。
例えば、その中でも最も有名な人物として挙げられるのが、三菱財閥を創設した岩崎弥
太郎であろう。
彼はもともと土佐出身の浪人者であったが、かの坂本竜馬ら幕末の英傑らに見出さ
れ、志士の仲間入りを果たした。そして、やがて維新がなった後、紙くずになるはず
だった、それまで諸藩が発行していた藩札(各藩が独自に発行していたお札。各々の
藩内でしか利用できず、廃藩に伴い全て廃棄された)を、新政府が全て買い上げる予
定でいることを、その立場上いち早く知っることとなった彼は、全国を回ってこれらをか
き集めた。
そしてこれらが、晴れて明治政府によって新たに発行された日本銀行兌換銀券(すな
わち円)に全て換金されたため、彼は一夜にして巨万の富を手にすることができたのだ
(いうまでもなく、これぞ“インサイダー取引”の代表のような案件なのだが)。
このとき彼が得た巨富こそが、後の三菱財閥創設の礎となったのである。
さらに、往時の帝国経済界は言うに及ばず、その影響力は政官界にまで深く及んでい
たにも拘らず、弥太郎の存命中には、遂に、いわゆる三菱岩崎家が、華族に列せられ
ることはないままに終わったのであった(※2)
しかし、かの霊峰大寺家が積極的に縁故を持とうとしたのは、彼ら岩崎家ではなか
った。
「そして手始めに霊峰大寺家が近付こうとしたのが、財界では旧土佐藩の一介の下級
武士から大銀行家にまで上りつめた安達宗次郎と、官界では薩州の郷士出身で、維新
後に大久保利通らの命を受けて初代警視庁大警視(現・警視総監)となった川路 利良
(かわじ としよし)でした」
「川路・・・大警視!」
多祥の背筋が思わず伸びた。
川路 利良。 日本の近代警察の父と呼ばれた男で、彼こそが、維新後欧米各国の、
とりわけフランスの警察制度を範に警視庁を創設した人物であった。
彼が残した警察論(警察手眼 けいさつしゅげん)は、まさに警察官のバイブルであり、
今日においても尚、その名とともに彼の思想哲学は、等しく警察官の中に息づいてい
る。無論、多祥も例外ではない。 ましては彼はキャリアである。また警視庁勤務の警
察官としては、いわば多祥は川路の直接の後輩に当たるわけだ。
思わぬところで、この川路の名が出てきたことに、周囲が想像するより遥かに、彼は
当惑していた。
因みに、先に挙げた霊峰大寺家と多祥との意外な「重要な関り」とは、このことである。

(※)江戸時代、武家の次男格以下(とりわけ三男格以下)をさす言葉。家督相続権
がある長子を除く男児は平和だった同時代にはこう呼ばれ厄介者扱いされた(ただし
次男格は長子にもしものことがあった場合に備え“お控え様”と呼ばれ、家督相続者
の“補欠候補”として三男以下よりは多少なりともまだましな扱いを受けていた。
又、同時代部屋住みにとっての最大の好事は他家に養子としてもらわれていくこと
だった。

(※2)しかし弥太郎の死後、彼の子息はその父の功績が認められ男爵となり、岩崎
家は華族の一員となった。
戻る
全ての画像・写真等の無断転載、複製、使用を固く禁じます<pempires事業部>
Copyright© since 2007 pempires division All Right Reserved.
ペンパイアーズ