「本当に、まだまだ暑いですね。地球はどうなっちゃうんだろう?」
多祥は殆ど何も考えずに、彼女に言葉を返した。だが、それに対する彼女の反応はいさ
さか奇異なものだった。
「地球はともかく・・・日本は、大変ですね。なんとかしないと」
「はあ・・・そうですね、ええ」
多祥はとりあえず無難な解答でお茶を濁した。が、少しばかり頭の中を回転させ、彼女の
言わんとすることをそれなりに推測した。
天気の話、だったはずだ。だけど・・・きっと彼女は、既に捜査の方に気持ちが向かってい
るのであろう。そして捜査の件から、さらに彼女の父が日夜取り組んでいる経済改革にま
で連想が及んだのであろう。
たしかに・・・今のまま、国が後先を考えずに、じゃぶじゃぶと税金を無駄遣いし続けたら、
この国の将来はお先真っ暗だ。それを思えば、地球の環境がどうのこうのいう以前に、こ
の国は世界よりいち早く破綻してしまう。
この多祥の推理は、的を射ていた。次に発した彼女の言葉が、その証拠だ。
「ご存知ですか?この国の借金の総額とその内容について」
ああ、やっぱりそうだった。 多祥はその内容をどうこういう前に、「女の気持ち」を理解した
自分を、ほんの少しほめてやりたかった。
「すごいんですよね、借金。世界でも最悪なんじゃなかったでしたっけ?」
そうだ。もし国の収支が破綻したら、俺みたいに国に食わしてもらって“遊んでいる”人間
なんか、目の敵にされるだろうなぁ。いや、真っ先に抹殺かも知れん。
「やはり、消費税とか上がるんでしょうかねぇ?・・・お父様はその辺なんと?」
多祥は又もそれほどの考え無しに、ただ彼女の話の主旨に歩調をあわせるつもりで、何
気なくこう質問した。
だが彼女は、思いのほか語気を強めて 正直、多祥が面食らうほどに あたかも、
やり場のない怒りを多祥にぶつけるように、彼の素朴な問いに答えた。
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20 |
「多祥さん。貴方も、そして多くの国民も、みんな騙されているんです!」
典子は歩みを止め、こちらに振り返った。その瞬間、多祥はたじろいだ。彼女はまるでこ
ちらの方を睨みつける様に、それまでにない鋭い眼光で、彼の顔を見入ったのだ。
そして尚語気を強め、彼女は持論を展開した。
「確かに、国家財政は逼迫しています。なにがしかの手を即刻打たないと、取り返しのつ
かないことになってしまうでしょう。ですが、700兆とも、800兆ともいわれる我国の債務
超過というのは、ここで断言しますが、まったくのでたらめです!実質的な債務はおよそ
300兆円台です。残りは全ていわゆる帳簿上では、資産に換算されるべきものなので
す!」(※)
「・・・え?・・・そ、そうなんですか」
典子のあまりの剣幕に、多祥はそういうのがやっとだった。
「そうです。300兆円台なら、これも決して少ない学ではありませんが、GDP比としては、
他のOECD加盟国と比較しても大して差はありません。健全な状態、といってもいいで
しょう」
典子は、ここまで言うときびすを返し、件の研究室に再び歩を進め始めた。多祥もそれに
従う。典子は、歩みながら尚も話を続けた。
「ではなぜ財政が破綻寸前だ、などと国は言うのでしょうか?答えは簡単です。強迫観念
を植え付けて、国民に増税が必要だと思い込ませようとしているのです。現状を維持し、
自分達が永遠に利権を貪り続けるために!」
多祥は、黙って頷いた。
「本当にやるべきことは、こうした構造の改革です。国家予算にぶら下がる一部の“特権
階級”だけが得をするシステムを改め、そこを自由化しなくてはなりません。それには現
金の流れを絶つことが必要です。そうすれば、いくら彼らが自分達にのみ都合がいい予
算を組もうとしても、それは画餅に終わるのですから。そしてそれこそが、父が目指す郵
便貯金の民営化なんです!」
「郵貯の・・・民営化。ああ、四師谷大臣の持論ですね」
多祥は、辛うじて要していたこの件に関する全知識を披露した。
「実はあれ、父が四師谷先生にサジェッションしたものなんですよ」
彼女の頬にかすかに笑みが戻ったのを、多祥は彼女の左斜め後方から確認することが
出来た。
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21 |
「郵貯の民営化がなされれば、今まで見たいなでたらめな投資にお金が流れることは不
可能になりますからね。それだけでも無駄な税金の使い方は改まるはずです。それと、
あと重要なのは国が持つ金融資産の民営化ですね。これを今の比率から、他の先進国
並みにするだけでこの国の財政は一気に最強国になります。でもあざとい官僚達は、こ
うした父の提言を何とか握りつぶそうと、メディアを使って稚拙な誘導を行っています」
「はあ・・・」
多祥は何か具体的な質問をしようと思ったが、間抜けなことを言って彼女の不興を買う
リスクを犯すより、ここは無難に頷くことを選択した。
「父が国の金融資産の開放を謳ったら、あの人たちはテレビでなんていったと思います?
“金融資産”を“国有資産”という言葉にすり替えたんですよ!わかります?この意味。つ
まりですね、役人達の天下り先になっている様々な似非金融機関とその資産のことを父
は指摘したのに、彼らはそれを似て非になる言葉を使って、なんと国立公園などの森林
に話をすり替えたんですよ!公共の電波を利用して!!何度も何度も!」
典子のボルテージが、ここで一気に上がった。
「曰く、“国の資産といっても、殆どが赤字にしかならない森林地帯だ”って!だからそん
なものを売却したって、国家財政を立て直すことなんか不可能だって!・・・こんな稚拙な
論理のすり替えで、あの人たちは父の正論を踏み潰そうとしてるんですよ!」
彼女は紅潮した顔を今一度多祥のほうに向けた。その目は悔しさから涙が潤んでいるよ
うにも見えた。
訴えかけるようなその瞳に見据えられ、多祥も思わず語気を強めて返した。
「そうなんですか?!・・・それはひどいな!官僚ってやつは、どうしてみんなそうなん
だ!」
最も、この件に関しては唯彼女に言葉を合わせているだけでなく、多祥の本音でもあっ
た。
彼もまた官僚組織という疲弊しきったシステムの中で、日々もがき苦しんでいる身だっ
たので、この件に関しては誰よりも理解しているつもりだった。
でも、典子の解答は、多祥にとっては、又もあらぬ方向にすすんでいった。
「官僚だけではありません!政治家も一緒です!右も左もみんな一緒。考えているのは
自分の利益だけ。国民の将来になんか、殆ど関心がない人たちばかりです!・・・保守
なんていってるけど、ちっともこの国のことなんか思ってない!・・・とくに・・・」
彼女はそのあとに続くべき言葉をなぜか呑んでしまった。だが多祥はそのことには気が
つかなかった。
「そうですね。・・・政治家も、みんな官僚同様です。いや官僚以上に彼らは問題かもしれ
ませんね」
多祥は彼女に言葉を合わせるのに精一杯だった。 |
22 |
典子は再び前を向いた。そしてキャンパス内の西北西、他の校舎群とはやや離れたとこ
ろに位置する鉄筋コンクリートの建物 4階建てで、やや明るめの黄土色を基調とした
レンガ風の壁面に覆われた古くも新しくもない、そして大きくも小さくもないビル。その外観
について、デザイン的なものをもし言葉で表現するならば、「一昔前のモダン建築」といっ
たところか に多祥を招き入れた。そして彼らの捜査本部となる研究室へと向かって、
校舎内の階段を二人は並んで上った。
その間も、まだ彼女は件の話を続けていた。
「四師谷先生は、そんな中にあって、数少ない信用のおける政治家の一人です。実は、
四師谷先生、父の教え子なんです。吉鷹(きちよう)大学の学生だったときの。父のゼミの
学生さんで、成績もすごく良かったみたいですよ。・・・あ、これは情報の秘守義務に反し
ますね」
そういって、典子が又ぺろりと舌を出した。どうやら、その仕草は彼女のクセらしい。多祥
はそれがとても愛らしく感じられた。
「ごめんなさい、多祥さん。なんだか、興奮してしまって。つい余計なおしゃべりしちゃいま
したね・・・なんだか、偉そうに。・・・実はみんな父の受け売りなんです」 君は、きっと素直
に育ったんだね。と多祥は思った。尊敬する父の背中を見て、それを追うようにしてここま
で来たんだね、と。
研究室はその建物の3階にあった。典子が一室の前で立ち止まり、その扉を開ける。
「ここが大学院の研究室です。・・・厳密には、父が書斎のように利用していた部屋を、大
学院生達のために開放したものです。どうぞ、中にお入り下さい」
多祥は、案内されるままに室内に入っていった。典子があとに続く。
室内には入り口から入ってすぐの場所から、溢れるほどの本が、これまた溢れるほどの
本棚に所狭しと並んでいた。そしてその本棚が部屋をところどころで遮るように置かれ、
研究室の中は、半ば迷路のようになっていた。
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23 |
入り組んだその迷路の一角に、束の間のスペースが広がっており、そこに一台の机が無
愛想にでんと置かれていた。無論その上にはパソコンの他に、溢れるほどの書類やら本
等があきれるほど乱雑に山積みになっていた。 室内には誰もいないようだったが、典子
は辺りをきょろきょろと見回し、何者かに声をかけようとしているようだった。
「あれ?飯田君はいないのかしら」
小声でそう呟いたあと、彼女は多祥にこの場所について、説明の補足を行った。
「私、この部屋大好きなんです。父が学長になってから、私もここの大学にちょくちょく顔
出すようになって。ゴチャゴチャしてむさ苦しいんですけど、なぜか、この部屋に来ると落
ち着くんです。多祥さんも、どうか遠慮なさらずに、ここではくつろいで下さい」
そういって、彼女は机のそばにある丸椅子の一つに座るよう、多祥を促した。
席に着いたものの、多祥は正直、ちっとも落ち着かなかった。あるはずの窓は本棚に遮
られ見えない。クーラーも付いているようだが、正直室内の温度は微妙な感じだ。それ
に、そもそも部屋が汚い。だが彼女は心なしウキウキとしているようだった。まるで自慢
のおもちゃを見せる子供のように。そして実際、彼女はそんな心情だったのだろう。彼女
は多祥のすぐ左脇に立つと、あたかも観光バスのガイドさんがそうするように軽く左手を
挙げ、周囲の風景を案内するかの如く振舞った。
「信じられます?ここにある本、数万冊はあると思うんですけど、全部父の蔵書なんです
よ」
「ええっ?!・・・これを個人で?・・・凄いですねぇ!」
多祥はやや大袈裟に驚いて見せた。ついでに本棚を見回すと、如何にもお堅い内容が
書かれていそうなハードカバーのものから、なんとも安っぽい雑誌まで、一見、あらゆる
類の本が無分別に置かれているように見えた。だが、よくよく見るとその本棚の中に、
他とは違い、妙にきちんと整理されて本が並べられている一角があった。そもそもその本
棚自体、他とは違い大きくて立派な造りになっている。
「しかもですね・・・ここ。この本棚三つ分、がですね」
多祥が気がついた本棚を指し、典子がいよいよ自慢げに話を続けた。
「この本棚にある本は、全部父の著作なんですよ」
典子ははしゃぐように満面の笑みを浮かべ、右手で、多祥の左肩を二度、三度撫でた。
「・・・やはり、大学の学長ともなると、凄いんですねぇ」
多祥は彼女が指差す方を見ながら、素直な感想を述べた。
この一連の会話によって、江藤典子という女性は、父思いの誠に実直な娘である、と
多祥の中で強く印象づけられた。
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24 |
多祥と江藤紀子が談笑していると、部屋の奥の方でごそごそと何か物音がした。音のな
る方は、本棚にさえぎられて視認できない。刑事の本能で、多祥はそれとなく身構えた。
明らかに誰かがいる気配だ。
「あっ、やっぱり飯田君、いるみたいね」
「飯田・・・君?」
典子が多祥に安心感を与えるためか、再び彼の左肩に手を添えた。
「ええ、ここの大学院生の飯田文彦君。経済学の博士号を目指している俊才で、かつコン
ピュータの天才」
「別に・・・」
典子が飯田の紹介を終えると同時に、若い男が本棚の奥から姿を現した。何か柄の入っ
た茶系統の色を貴重にしたTシャツに、よれよれのジーンズを履いた彼のその服装は、多
祥の目には如何にも今時の学生の姿に見えた。
「あ、どうも、飯田です」
彼はぼさぼさの頭をかきながら、多祥に向かって一応頭を下げて見せた。
多祥も気持ち彼に向かって会釈をし、「多祥と申します。よろしくお願いします」と返礼をし
た。
「多祥さん・・・刑事さん、ですよね?そうでしょ?典子さんが言ってた、この人が例の刑事
さん、ですよね?」
「ええ、そうよ」
典子とのこの短い会話からも、この飯田という若者が、どうやらある程度事情を知ってい
るのは察しがついた。
この男が、本部長が言ってた、警察とは別ルートの“人材”なのだろうか?
・・・まあ、恐らく間違いないだろう。
多祥はなんだか急に心細くなった。
・・・ああ。こういう、わけのわからん感じの有象無象が、捜査のお手伝いをしてくれるって
わけか・・・。
多祥は「厳しい現実」というやつに身がつまされる思いがした。 |
25 |
「俺、別に」
飯田は不意に、膨れっ面をして多祥に目線をくれた。
「コンピュータの天才なんかじゃないっすよ」
なんだその態度は。初対面だぞ、お互い!いったい、何が不満なんだ?
多祥にはさっぱりわけがわからなかった。
謙遜なのか?あるいは事前に過大気味な評価をされることを避けたいのか?
いずれにしろ、俺に向かってふてくされることはないだろう。
「飯田君、又奥で寝てたの?」
「ええ」
だが典子も飯田も、そんな多祥にはお構い無しに、会話を続ける。
飯田は無愛想なまま多祥らに近付いてくると、傍らの椅子にどっかと腰を下ろし、机の上
のパソコンを起動させた。そしてその後はモニターをにらんだまま、黙り込んでしまった。
多祥は呆気にとられて、その様子を暫く黙って見ていた。すると、また典子が彼の肩に右
手を優しく添えてきた。きっとこの沈黙を彼女は気まずく感じたのであろう、と多祥は思
った。
「じゃあさ、本当の得意技、見せてあげてよ。多祥さんに」
そういって、典子は添えていた手をどけると、その場から不意に離れた。
多祥はなんとなく、彼女の方に目をやり、その動きを追った。 ニ、三歩下がったところに、
小さな冷蔵庫が置いてあることに彼は気付いた。典子はその冷蔵庫の扉を開けると、中
から今時珍しい栓で蓋をした瓶のジュースを一本手にして戻ってきた。
「なんか・・・懐かしい感じのジュースですね」
多祥が思わず感想を述べた。
「ええ、結構探すの大変だったんです。今時、瓶に入ったジュースって。しかも、ほら、
これ栓抜きで開けるタイプなんですよ」
典子はそういって、そのジュースを“客”ではなく、飯田に渡した。
「でも、ようやくネットでルートを確保できたんで。いいお店あるんですよ、今は」
「へえ、そうですか」
多祥は引きつった笑顔を浮かべて、典子に言葉を返した。
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26 |
一方の典子は、何もかも承知したような顔つきであった。そしていかにも思わせぶりな言
葉で飯田にあることを促した。
「さあ、飯田君、お客様がお待ちかねよ!いつものあれ・・・君の得意技、見せてあげて
!」
飯田は、典子にそういわれると、手にしていた瓶をやおら口に当て、栓のあたりを咥え
た。そして彼は瓶の口に噛み付いたまま、手にしていた瓶を勢いよくひねった。
ポン、と音が鳴った。
「やった!大成功!ね、すごいでしょ、多祥さん!」
飯田は相変わらずの無愛想で、手にしているジュースの瓶を多祥の方に突き出した。
「どうぞ」
「・・・はあ、ど、どうも」
多祥はそれをおずおずと受取る。
これが得意技か?昭和のびっくりショーかなにかか?
「ね、飯田君って、歯で瓶の栓、抜くこと出来るんですよ!凄いでしょ!」
「・・・はあ、・・・はい。凄いですねぇ・・・」
多祥はなんともリアクションに困りながら、手渡された瓶を、仕方無しにしげしげと見つ
めた。
「飯田君、すっごく歯が丈夫なんです。一度噛み付いたら決して離さないっていわれるく
らい。以前山登りしてて足を踏み外して、崖から落ちそうになったときも、岩に噛み付い
て助かったんだよね!?」
多祥には面白くもなんともない冗談に聞こえたが、典子の顔を見ると、彼女はいたって
真面目に話をしているように見えた。
ああ・・・こういう娘なんだ、この娘。
ある意味多祥はホッとした。男は皆、頭が良く隙のない美人より、天然気味の娘に惹か
れるものなのだ。
「崖から落ちたことなんかないっすよ」
飯田がパソコンのモニターを見入ったまま、流れるようにキーボードを叩きながら、相変
わらずの無愛想で典子に答えた。
「でも、多分できると思うけど。岩に噛み付いて、自分の体重を支えることぐらい」
何の自慢なんだ? あるいはつまらない冗談なのか?
「多祥さん、どうぞお飲みになって」
「・・・はい」
中身を注ぐべきグラスを渡されないまま、多祥は振舞われたジュースをいよいよ口にす
る羽目になった。
「・・・いただきます」
飯田が噛み付いたばかりの瓶の口に、彼は唇を当て、それを一気にラッパ飲みした。
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27 |
「多祥さん」
典子が多祥の横に椅子を置いて、そこに腰を下ろした。
「はい」
多祥は一気にジュースを飲み干すと、彼女の方に体ごと向け返事をした。
あらためて、彼女が思いのほか近くに腰を下ろしていることに気付き、多祥は少々面食ら
った。
男通しだったら、決してこういう距離はとらない。ここまで相手の領域に踏み込んでこれる
のは、まさに女の特権だ。
「いうまでもなく、なにぶん、我々は捜査に関してはまったくの素人です。ですけど、一生
懸命お手伝いしますので、あらためまして・・・どうかよろしくお願い致します」
彼女が頭を 下げた瞬間、危うく多祥はその鼻先に彼女の頭突きを喰らいそうになった。
無論、彼女はそんなことになっているとは、夢にも思っていない。しかも頭を下げたまま、
彼女はしばし微動だにしなかった。彼女なりの誠意の表し方だということは、勿論多祥
にも十二分に伝わったのだが、何しろ距離が近すぎる。その体勢だと、多祥からはまる
で典子に己の股間をじっと見据えているように見えた。しかも彼女は・・・極度に近眼の科
学者が研究の対象物を目を凝らして必死に見ているような・・・そんな面持ちだったのだ。
相手が美人なだけに、多祥にはえらく居心地が悪く感じられた。
「頭を、おあげ下さい」
多祥はいたたまれず、思わず彼女の肩を掴んで、半ば強制的にその身を起こした。
「ご心配なさらずに。私も全力を尽くすことをお約束いたしますから」
そういって、多祥は微笑んで見せたが、彼女は未だ必死の形相だった。
「・・・でも、これは正規の捜査ではないわけで・・・もし私たちのせいで、多祥さんのキャ
リアに傷でも付くようなことにでもなったら、わたし・・・」
その心配には及びませんぜ、お嬢さん。あっしのキャリアはとうの昔に傷ついていやす
んで。
とはさすがの多祥も口には出来ない。
「大丈夫です。正規の捜査であろうと、なかろうと、もしそこに犯罪があったとしたら、そ
の真実を突き止め、犯罪者を検挙すること、それが我々の職務ですから」
再び多祥が笑みを浮かべて見せた。
典子もようやく安心したのか、あの笑顔をやっと彼に返してくれた。
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28 |
飯田が相変わらずの調子でパソコンのキーを叩きながら、二人の会話に無愛想に割り込
んできた。
「で、刑事さん。まず何するんすか?」
典子が飯田をフォローするように、言葉を付け足す。
「あの、何でもおっしゃってください。捜査に必要なものがあったら」
そういって、彼女はやおら立ち上がり、部屋の奥に一旦消えた。そして手にファイルらしき
ものをいくつか携え、再び多祥の元に戻ってきた。彼女が持ってきたファイルケースのひ
とつには、「T・History」と記してあった。
「僭越ながら、何か捜査のお役になればと思い、飛田家の歴史をまとめておきました。も
し必要でしたら、ご覧下さい」
「ありがとう」
多祥はとりあえず、促されるままにそのファイルを手に取った。彼女は他のファイルケー
スを、机の上に山済みなっている書類の上に載せると、又多祥のすぐ近くの席に腰を下
ろした。
「多祥さん。やはり犯人は、飛田家の誰か、なんでしょうか?」
それを今から調べるんじゃないですか。
多祥は心の中で苦笑した。まるで検査することが決まった時点で「私は癌ですか?」と
聞いてくる患者のようだ、と思った。
気持ちはわかるが、当然イエスともノーともいない。
「まずは手がかりなるかどうか・・・これを読んで見ましょう」
多祥がそう答えると、彼を代弁するように飯田がカラカラと笑い声を上げながら、典子を
諭した。
「のりちゃん。それわかってたら、捜査とかする必要ないべ」
典子もそう指摘を受け、改めて納得した様子で、うんと頷いた。そして多祥お気に入りの
例の仕草でぺろりと舌を出した後、「ごめんなさい」といって、その場で頭を下げた。
が、彼女は不注意から、その際したたか頭を、目の前の多祥の左肩にぶつけてしまっ
た。
「大丈夫ですか?」
多祥が自らの痛みよりも先に驚いて、彼女の心配をすると、典子はさらにあわてた様子
で再び「あっ、ごめんなさい」といって勢いよく頭を下げた。これがさらに運悪く多祥の顎
をヒットした。
「・・・っつ!」
さすがにこれには多祥もいい顔はしていられなかった。痛みに耐えかね、苦悶しながら
さするように顎を押さえた。
「あっ!・・・ほんとにごめんなさい」
彼女は一瞬又も頭を下げようとしたが、これ以上の惨事を引き起こさぬよう、どうにか
それを思いとどまった。そして羞恥から顔を赤らめ、今にも泣き出しそうな表情で多祥
の顎に手を添えてきた。
「大丈夫ですから!・・・大丈夫!」
多祥は制したが、尚も典子は涙ながらに、必死になって多祥の顎をさすった。
その様子を見て、飯田が再び無責任な笑い声を上げいった。
「災難だったね、刑事さん!」
・・・まったくだ。 が、間違ってもそれを、多祥は口には出来なかった。
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29 |
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典子が用意してくれたファイルの中から、まずは被害者の(可能性がある)飛田高志とい
う人物がいかなる人物だったのか、そして彼を取り巻く情況がいかなるものだったのか、
という基本的なデータに、多祥は目を通すことにした。
飛田高志。享年33歳。
彼は生前、飛田一族が実質的に支配する「アルファオアシス」グループという企業群の
中でも、その司令塔に当たる、いわゆる持株会社の「アルファオアシスホールディングス」
専務取締役、という地位にあった。
「お子さんは・・・まだ8歳、か・・・」
資料を読みながら、多祥が思わずこう呟いた。
傍らで、彼のことをじっと見守るように息を潜めていた典子がため息混じりに相槌をうつ。
「ええ・・・・・・かわいそうに、まだ8歳のお嬢さんが、亡くなった父親の第一発見者にな
ってしまうなんて・・・」
得てして現実とは、過酷なものだ。
多祥は彼女の言葉にただ黙って静かに頷くと、続きを読むことに集中しようとした。
今や若くして後家になってしまった彼女の母親、つまり飛田高志夫人のまりえと彼が出
会ったのは、大学の学生時代、高志が19歳、まりえが18歳の春のことだった。
彼らは同じ本庄大学の先輩後輩という間柄だった。高志はの政経学部、まりえは理工
学部の出身で、互いのキャンパスはまったく所在地が別にあったが、同じ美術系のサー
クルに入部したことで、彼らは出会い、やがて交際するようになったようだ。
高志は卒業後、一族が経営するアルファオアシスグループの中核企業「アルファオアシ
ス商事」に入社する。翌年、まりえは恐らく高志との縁故により、同グループ傘下の工業
デザイン会社「メルクリウスアルファ」に入社、さらに一年後、二人は結婚をし、明けて翌
1月に一人娘のまりもが生まれた。
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30 |
飛田家の歴史は想像以上に複雑なものだった。
飛田高志はアルファオアシス商事入社五年後、27歳の若さで、一族が支配する企業群
大本営とも言えるアルファオアシスホールディングスに、常務という肩書きで“移籍”す
る。一見この人事は、よそからは、同族企業の御曹司が「順当」にその座に就いたよう
に思えるのだが、実際にはそう単純な話ではなかった。
飛田家には大きく分けて二つの流れがあった。
グループの創設者、飛田万蔵には二人の息子がいた。双子の兄弟で、兄の誠一は長じ
て、グループ内で新設されたアルファオアシス銀行の初代頭取となった。
一方、弟の誠二は、父・万蔵の跡を継ぎ、グループの礎となったアルファオアシス商事
の二代目社長となった。
この誠一の家系と、誠二の家系が、いわばその後形成された“二つの飛田家”の起源
となった(ちなみに、この二つの飛田家は、その住まう位置関係から、かつての南北朝
動乱になぞらえて、兄・誠一の系統を北「飛田」家、弟・誠二の系統を南「飛田」家と内々
では呼び合った)。
一族の長である万蔵は、長男の誠一には来るべき国際化時代における金融事業の重
要性を説き、傘下に新設したアルファオアシス銀行及び、一連の金融事業群を統率する
よう命じた。が、実のところ、事業家として、又自分の正式な後継者としては、次男の誠
二の方に、より大きな期待を抱いていたようで、そのため、飛田家の「玉座」とも言うべき
アルファオアシス商事の社長の座には、自らが退いた後、彼に後を任せたのであった。
そしてその誠二への“贔屓”が、後々まで一族に禍根を残すこととなったのである。
万蔵のこうした弟贔屓に反発した兄は、次第に激しく、ことあるごとに彼らに反発するよう
になった。一見、子供じみているようだが、そこに巨大な利権が絡むため、ことは厄介で
ある。
以来、誠一、誠二の双子の兄弟を始祖とするこの南北二つの飛田家は、激しく対立しあ
う関係となってしまった。そして、それは今も尚続いていたのである。
|
31 |
亡くなった飛田高志は、この双子の兄弟の弟、誠二の血筋であり、さらに彼はその正統
にあった。流れからすれば、一族の創始者・万蔵が望む、最も玉座に近い後継者、とい
うことになるはずであった。少なくとも万蔵の時代は、そういう未来を彼は想定していた。
しかし歴史の流れは、そう簡単に万蔵の望み通りには運ばなかった。万蔵の生前からく
すぶっていた誠一・誠二の相克は、万蔵の死によって、いよいよ抜き差しならぬ状態とな
ってしまった。
戦後の本格的な復興期を迎え、次々と超大型の国家プロジェクトが計画され、これを巡
り、企業間の激しい受注競争が繰り広げられた。誠二率いるアルファオアシス商事も、
こうした大型受注を次々と獲得することに成功していた。だが次第に、その規模がさらに
一段と巨大化していく中、アルファオアシス商事もその手がける事業が余りにも膨れ上が
りすぎて、ときに資金繰りが厳しくなる事態を迎えてしまっていた。そして、いくつかの建
築業者を一本化し、巨大ゼネコンを誕生させる必要が生じた際、遂に危機的局面を迎え
る事態となってしまった。
アルファオアシス金融グループを率いる誠二の兄・誠一は、このときをじっと待っていた。
亡き父の遺志であり、巨大なコングロマリット内の相関関係を維持せざるを得ない状況
下において、彼はこれまで面従腹背を貫き、唯々諾々とアルファオアシス商事に惜しみ
ない資金協力をしてきたが、ついにこのとき、彼の銀行は、アルファオアシス商事からの
更なる資金提供の呼びかけに対し、断然これを拒否したのだ。
メインバンクの、しかも同族企業による資金提供の拒絶、という衝撃的なニュースは、瞬
時に千里を駆け抜けた。
「アルファオアシス商事が危ない!」との噂は、瞬く間に産官界では既定の事実として受
け止められ、誠二率いるアルファオアシス商事グループは、一気に滅亡の淵に立たされ
.る。 |
32 |
が、ここからの誠二の巻き返しが凄まじかった。
誠二はまず外資導入も辞さず、との姿勢を、内々に官僚たちに示した。これは彼らが既
に受注していた国家プロジェクトの利益が外国に流出することと同時に、事実上、金融
のボーダレス化を引き起こすことを意味していた。これは官僚を“恫喝”したに等しい行
為であった。いざとなればアメリカを焚き付けてやる。止められるものなら止めてみろと。
これは効果覿面であった。
何にもまして、金融庁はこれをきっかけにアメリカが我国に対し本格的な金融の開放を
迫ってくることを危惧し、背に腹は変えられぬと、この誠二の脅迫に泣く泣く屈した。
彼らは誠二の意図したとおり、金融界に対しアルファオアシス商事への積極的な資金
提供をするよう強く迫った。とりわけ、自ら問題の発火点となったアルファオアシス金融
グループに対する圧力は凄まじいものがあった。
また、誠二はこれだけでは飽き足らず、懇意にしている政治家にも働きかけ、裏からも
表からも、アルファオアシス銀行に、さらに大きなプレッシャーを掛けた。
そして遂にこれらが功を奏し、アルファオアシス商事は資金繰りに成功、彼の企業の主
導の元、巨大なゼネコンを誕生させることに成功した(結局、アルファオアシス銀行は他
行より低利の融資を強要された)。
そのアルファオアシス銀行では、これをきっかけに首脳部間で主導権争いが勃発。政官
とのパイプにひびが入ることを恐れた「親アルファオアシス商事派」が台頭し、彼らが経営
の一線から退場するよう、誠一に迫る事態となった。
が、ここで思わぬ事件が勃発し、誠一への各界からの圧力が、あたかも汐が引くが如く
一斉に静まった。
その事件とは何か?
なんと、アルファオアシス商事社長の誠二が唐突に亡くなったのである。
|
33 |
飛田誠二の死因は「心不全」と診断された。彼はクライアントと商談のため、行き付けの
レストランで食事をしている最中に、突如苦しみだし、そのまま意識を失い、それから1
時間とたたぬうちに息を引き取ってしまったのであった。
この誠二の突然の死により、再び事態は一変した。
アルファオアシス金融グループ内で勢力を伸張しつつあった「親アルファオアシス商事
派」は一挙に力を失い、やがて誠一によってグループ内から一掃された。
又、金融庁や政治家からの圧力もたちどころに霧散し、アルファオアシス「商事」と「銀
行」の力関係も、再度金融グループ側に比重が傾いていったのだった(だがさすがに一
度動き出した融資の件は最早この時点では、誠一の思い通り“解消”とはならなかっ
た。しかし彼は執念で、低く抑えられていた融資の金利を、他行と同じ条件にまで戻す
ところまでは何とかこぎつけることが出来た)。
誠二の謎の死により、誠一は完全に息を吹き返すことに成功したのだ。
だが 当然のことながら、この誠二の不審な死に、多くの関係者が“暗殺”の匂いを
嗅ぎとった。無論、誰も証拠を手にしているわけではなかった。が、巨大な利権を巡って
血みどろの闘争劇が繰り広げられている只中で、果たしてこれほどその一方にのみ都合
の良い出来事が、自然と発生するであろうか?との疑惑が生じるのは仕方のないことで
あったといえよう。
そしてその疑惑の目は、当然、先王の死によって最も得をしたクローディアス(※2)へ
と注がれた。だが警察もかつて誠二と懇意にしていた政治家達も、その遺族が懇願した
にも拘らず、結局表立って動くことはなかった。
こうして誠二の死は単なる“病死”と断定され、そのままこの一件には終止符が打たれ
たのであった。
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さらに時がたつにつれ、アルファオアシス・グループ内における、飛田誠一とその一族の
一層の台頭が、より顕著になっていった。それに反比例して、誠二の遺児達の、グルー
プ内における影響力の低下も、次第に明白となっていった。
誠一が率いる北飛田家は、その拠点であるアルファオアシス金融グループ内における
彼らの影響力をさらに磐石なものにせんと腐心する一方、ただそのことのみに止まらず、
宿敵であるアルファオアシス商事側にも、その触手を伸ばし、自らの力の浸透に尽力した。
北飛田家が目指したのは、一族によるグループの完全支配であった。
その過程で、誠一とその一門による、誠二の遺児たち南飛田家に対する圧力は、日を
負うごとに目に余るものになっていった。
事実無根のネタを週刊誌に流し、世間に、誠二の遺児達がいかにスキャンダラスなもの
かとの印象を与えた。
巨額の脱税疑惑から、一族の乱行 不倫、買春、レイプ などを彼らの息の
かかったメディアが断定的に報じた。
また、かつて誠二がそうしたように、今度は彼らが懇意にする政治家や官僚たちを自らの
手足のように使って、陰に陽に、誠二一門のグループからの排除に力を注いだ。
こうして、耐えざる北飛田一族からの攻撃に対応することに忙殺され、南飛田家の面々
は、次第に心身ともに疲弊していった。
が、執拗な攻撃にも拘らず、誠一一門は誠二の子孫を、グループから排除することには、
遂に成功しなかった。
皮肉なことに、ここに至り誠一はようやく自分が実の父に己が想像するより遥かに疎んじ
られていたことを知ることになったのだ。誠二とその子孫達は、誠一が手にしたよりもはる
かに巨額の相続権を 具体的には、アルファオアシス・グループ傘下の企業群が発
行したより多くの株式を 所有しいたことが、これら一連の出来事の過程で判明した
のであった。
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現代から見れば、それは必ずしも合法であったとはいいがたいかも知れない。が、飛田
万蔵は、誠二とその子孫達に、あらゆる手段を講じ、法の抜け穴を細心の注意を払って、
グループ参加の企業が発行した多くの証券類を相続させていたのだ。
それはペーパーカンパニーを通した迂回融資、本来支払うべき相続税を回避するために
行われた名義変更など、現在では(そしてその多くは当時も)完全に違法であったり、違
法とはいえないものの、法の趣旨に反する多くの行為によってなされたものであった。
だがその手段の是非についてどう議論しようと、彼らが誠一とその一門より、はるかに巨
額の資産を所有している、ということは動かし難い事実なのである。
誠一は誠二の遺児達をさらに窮地に追い込まんと、彼らの資産状況を洗った。なにがし
かの脱法行為の一つも見つかれば、より自らが優位に立てると単純に思ってのことであ
った。だがその結果、彼らをグループから完全に排除することは不可能である、ということ
を彼は思い知らされたのだ。
もしこれらを追求すれば、返す刀で自らも傷つく可能性を否定することが出来ない誠一と
その一族は、その全貌を知るにいたり、これ以上の追い落とし作戦の実行に、二の足を
踏まざるを得なかった。
一つ間違えれば、全飛田一族が十派ひとからげに、アルファオアシス・グループから、あ
るいは産業界そのものから、永遠に排除されかねない。
誠一は冷静になって熟考した。既に充分に利益は得たではないか、最早、誠二の末裔が
グループの桧舞台に上がることはないところまで、我々はやつらを追い詰めることに成功
したではないか、と彼は自らにいいか聞かせ、ここは一旦、矛を収めることとしたのだっ
た。
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たしかに、それほど南飛田一門が受けたダメージは大きかった。誠一が動員したメディア
による扇動で、彼らは今やすっかり、世間からヒールなイメージを持たれてしまった。
傲慢で野蛮で強欲な一族
これが誠二とその子孫に押された烙印だ。利に聡い政治家達は当然彼らを避けたし、ま
してや味方となる者など最早どこにもいなかった。
彼らは依然として、アルファオアシス・グループ傘下の企業をその手中に収めているオ
ーナー一族だ。だが、再び表舞台に出て、思いのまま振舞おうとすることなど、少なくも
10年や20年位は、“不可能”といえないまでも、かなり困難であることは間違いない。
それに、それだけ時を稼げれば、又何らかの手を打つことも可能となろう。そしてそのと
きこそ奴らの息の根を止めればよいのだ。誠一はそう自分を諭し、心の安寧を得ること
とした。
誠一はこうして、ほぼ確かな勝利を手中に収め、安らかな最晩年を過ごす、はずであ
った。
が、ことはそうは進まなかった。
再度の逆転劇は、誠二の長子・飛田誠高が誠二の死後、ひっそりと起こしたある起業
がそのきっかけとなった。
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それまでのアルファオアシス・グループのビジネスのやり方は、典型的な“政商”スタイル
だった。国家というものにぶら下がり、その下で巨富を得るシステム。極論すれば、グル
ープの体制そのものが、国が発注する巨大プロジェクトを受注することを前提として成立
していたのだ。
あるいは、例え直接的に国家が関わらない事業でも、いずれ国家のプランニングが欠か
せないプロジェクトに携わることによって、彼らは巨大な利益を得てきたのであった。
飛田万蔵がグループを創設して以来、基本的にその構造に変化は無かった。つまり彼
らはその発足以来、常に国家の方を向いて商売をしてきたのである。正直、一般の顧客
等というものは、彼らにとっては文字通り“二の次”であった(無論、銀行などは、いわゆ
る“一般の顧客”も口座を開設していたのだが)。
だが飛田誠二の長子・誠高は、時代の先を読める人物であった。
彼は思った。
「いずれ本格的な消費ブームがやってくる。これからは国家ばかりではなく、一般の顧
客を大事にしなければ企業は生き残れない」
そんなことは、今では口にするのもバカバカしいほど当たり前すぎる話ではある。が、
彼らのような巨大な商社は、戦後暫くの時代を過ぎるまでは、一般の顧客をマーケット
の対象とするような発想などまったく無かったし、もっといえば、その存在すら意識する
こともなかったというのが、実際のところである。いわばマーケティングという概念その
ものが、彼らには存在しなかったのだ。
誠高はいち早くマーケティングという概念を導入し、一般消費者の心理動向を分析、こ
れに対応するよう努めた。
そして父・誠二の急死後、アルファオアシス商事社長の座に就くと、それまでの親方
日の丸一辺倒だった会社の運営方針を変え、大衆を意識した事業に次々と乗り出して
いったのだった。
まずは服飾産業に本格的に参入した。本丸のアルファオアシス商事とともに、アルファ
オアシス貿易を利用し、国内に海外の有名ブランド品の輸入を開始。次いで日本の若
いデザイナーを次々とスカウトし、オリジナルブランドを立ち上げた。
そして、若者をターゲットにしたこのアパレル事業は、たちまちのうちに評判を呼んだ。 |
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(※)参考文献
(※2)シェークスピアの戯曲「ハムレット」の登場人物。主人公ハムレットの叔父で、先
王の弟。その先王を暗殺し、王座に就いた。ハムレットの仇敵。 |
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