原作・平 盛文
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王家の墓標
PAGE3
とはいえアルファオアシス商事の収益に占める割合は、ごく小さなものであった。従って、
他の幹部連中からは、決してこの新規事業は“成功”したとの賛同を得ることは出来なか
った。
だが誠高にとっては皮肉なことだが、この大成功とは言いがたい情況が幸いし、彼の最
大の宿敵もまた、アルファオアシス商事の幹部たちと同じ感想を抱いていたのだ。
つまり、飛田誠一とその一門も、誠高の新規事業を低く評価し、これを脅威として認識し
ていなかったのである。
誠一の目には、この誠二の跡取りは、きわめて凡庸な人物に映った。そしてそれが彼を
慰め、心を安らかにしてくれていたのだ。
この情況は誠高にとっては追い風となった。
敵の邪魔立てはない。“家臣”達からも(積極的に味方はしてくれなかったものの、多少な
りとも利益は出ていたので)強硬な反対意見は無かった。
結果、誠高は自らの信念に基づき、以後も一貫した行動を続けることができたのだ。
誠一からすれば、ここで敵の芽を摘まなかったことが、後々大きなツケを払うこととなる。
結果、彼はその最晩年に、自らが凡庸な人物だったことを思い知らされることとなるのだ。
誠高はアパレル関連のビジネスが事業化可能と判断し、これを親会社から独立させ、自
らが社長に就任した。
さらに「デザイン」という枠を服飾関連から外へ広げ、工業デザインの世界にも進出した。
彼は大胆にもヨーロッパを中心とした海外の一流工業デザイナーを多数ヘッドハンティン
グし、その専門会社「メルクリウスアルファ」を設立した(これは後に、高志の妻・まりえ
が入社することになる会社である)。
これも当初は派手な宣伝の割にはそれほどの利益を上げることは出来なかった。そして
そのことが、アパレル業をはじめたときと同様に、誠一の心に安寧をもたらせてくれた。
しかしである。このとき既に、事態は水面下で少しずつ変化していたのである。
「アルファオアシス商事」という事業規模が巨大な割には、どこか軽く安っぽいイメージの
名前を持つこの会社に、突如として入社を希望する優秀な若者が殺到するようになった
のである。
誠一は遅くともこの時点で事に気付くべきであった。

傲慢で野蛮で強欲な一族

ほんの数年前、そうレッテルを貼られたあの飛田誠二とその一族の持つイメージは、少
なくとも最早若者の間では遠い過去の話となって、忘却の彼方に追いやられていたの
だ。
それを誠高は僅かな期間で見事にやってのけたのだ。
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誠一が気付いたときにはもうとうの昔に手遅れであった。
次いで誠高は、ときをおかずに、外食産業に進出。お堅い商社のイメージとはさらにかけ
離れたファーストフードのチェーン展開を開始し、益々一般の顧客の方に、彼の会社を近
付けてゆく。
さらにコンビニ、家庭用ゲームのソフト開発、お洒落小物の輸入、製造、販売等、次々に
若者をターゲットにした新規事業に乗り出し、これらをことごとく成功に導いた。
こうしてアルファオアシス商事は、きわめて短期間のうちに、アパレル、各種デザイン、外
食産業、貿易、エンターテイメント部門等を抱える文字通りの総合商社に生まれ変わった
のだ。
そしてその収益に占める比率も、いつの間にか、それら新規事業が旧来の“親方日の丸
部門”を凌ぐまでに成長していた。誠高の起こした事業は完全に軌道に乗ったのだ。
一方の誠一は、これをただ手をこまねいて傍観するのみであった。無論、彼なりに手を打
とうとしたのだが、これら新規事業は官僚や政治家等の干渉を元来非常に受けにくい性
質のものだった上に、アメリカに本拠地をおく企業とのフランチャイズ契約や、ヨーロッパ
在住の個人と取り交わした契約等が占める割合が大きかったため、下手に彼らが動く
と、却って「外圧」の憂き目を見ることとなったのだ。
そして誠一は、華やかに盛り返した誠二の遺児達の派手な成功劇を、ただ臍を噛んで見
つめながら、やがて老衰で亡くなった。
最も見たくなかった人々の成功を目の当たりにし、それを妬み、己の子孫の将来を暗い
気持ちで案じながら、心安からぬままに。

誠一の不安は彼の死後、次々と現実のものとなって、その子孫達を容赦なく苦しめてい
った。
バブルの崩壊とその後の失政(というより殆ど無策)により、金融業界は未曾有の危機を
迎えた。今や土地神話は崩壊し、かつては資産であったはずのものが、殆ど一夜にして
巨大な不良債権と化した。
その上、銀行は自身や産業界、また政官の様々な思惑などから、この残務処理がまった
くはかどらず、抱えた負債は、時が経てば経つほど雪達磨式に膨れ上がっていった。
そこへさらなる駄目押しが重なった。
金融国際化という荒波が、国の経済が疲弊したまさにこの時期に直撃したのだ。
既にこれより前、かつてこの国を支配した「護送船団方式」と呼ばれた「官民が一体化し
た鉄壁の産業構造」は、少しずつ時代の趨勢と齟齬をきたし始めていた。だがバブル崩
壊とともに最早完全に歴史的遺物と化したこのかつての守護神に、それでも多くのエスタ
ブリッシュメント達は必死にしがみつき続けようとしたため、事態はさらに悪化してしまっ
たのだ。
手はとうの昔に打っておくべきだった。しかしそれを先送りにし続けたが故に、この最悪の
タイミングで、遂にそれを受け入れざるを得ない情況へと追い込まれてしまったのだ。
   金融再編。
あらゆる情報が飛び交い、賛否両論が渦巻いたものの、遂に彼らもそれを受け入れざる
を得なかった。
そしてアルファオアシス金融グループも   つまりは、これを率いる飛田誠一の子孫達も
   この荒波の中を羅針盤なしで航海し続けなければならなくなったのだ。
そうでなくともバブル崩壊のツケで、アルファオアシス金融グループは、他の多くの同業
者と同じく、巨大な不良債権を抱えて右往左往している状態だった。
デフレ圧力はいつしかデフレスパイラルと呼ばれるようになり、そのうち上向くだろうとあ
えて楽観を決め込んでいた同首脳陣も、次第に追い詰められていった。
だがそれでも一時は巧妙が見えたときもあった。第一次IT勃興期がそれに当たる。だが
これも、まだ未成熟だったネットインフラの状況下においては、一時しのぎの“バブルの素
材”に過ぎなかった。
やがてあっけなくITバブルは崩壊した。 又これと前後して、当時アジアの新興国で端を
発した「通貨危機」も彼らに深刻なダメージを与えることとなった。
誠一が一線を退いたあと、その座を引き継いで北飛田家を率いたのは、誠一の長子・

であった。
時代の寵児として、世間からもてはやされていた誠高の派手な活躍を、義彦はしばらくの
間、ただただ我慢しながら羨望の眼差しを向けているしかなかった。
高度成長期が終わりを告げ、“安定成長期”という名の低成長時代を向かえ、彼は何にも
まして、偉大な父が作り上げたこの組織を守りきることを最優先せざるを得なかったのだ。
マスコミ受けのいい従兄弟の派手なビジネス手法に比べ、彼の経営方針はまったく地味
で手堅すぎるほど手堅いものであった。
がしかし彼の経営手腕は、目立たぬが故に、多くの場合メディアからは無視され、あるい
は時に辛らつともいえる批評を受ける羽目となった。そしてその結果、世間には過度に
「その父親同様、面白みに欠ける凡庸な経営者」のイメージを与えてしまっていた。
だが実際には、たしかに堅実すぎる嫌いはあるものの、彼は(少なくともこの時点では)
時代の趨勢というものを確実に捉える能力がある銀行家であり、その運用実績は顧客
達からは高い評価を得ていたのだ。
とはいうものの、やはり意識をせざるを得ないライバルの華やかな成功に対し、彼自身も
気付かぬうちに、鬱屈したものをその心底で徐々に肥大化させてしまっていたのであろう。
そしてその心に積もり積もった憂さを一気に爆発させるように、義彦はバブルの到来を期
に、その経営方針を一変させてしまったのであった。
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巨大な歯車は、最早完全に後戻りが出来ない状態にあった。
義彦の銀行は、土地神話に乗って無分別に拡大しようとする様々な業者に、それに輪を
かけて無分別に資金を提供していった。
だがその結果、彼の資産は倍増し、彼の所有する金融企業群も、有史以来の経済的成
功をその手にしていた。
義彦は完全に人生の勝者となった。
かつて、凡庸で面白みに欠けるただのボンボンと陰口をたたかれた男は、今や偉大な経
営者となり、それどころか世界を凌駕する経済大国「ニッポン」の現在と未来を担う大人
物となったのだ。
いや、それ以上の存在だ。そう、彼は己を、地上における神の如き存在であるとさえ思い
つつあった。
かつて彼と彼の祖先を悩まし続けた従兄弟の存在も、最早まったく気になることなどない。
従兄弟の誠高が率いる例の商社は、相変わらずチマチマと庶民を相手に小金を稼いで
いるに過ぎない、今や地味でつまらない存在に成り下がった。
義彦はこの結果にまったく満足していた。そう。他でもない、この地上で最も憎むべき男、
飛田誠高に勝利したのだから!
しかし、である。
「時代」という名の巨大な力は、目に見えぬ形で、密かに、そして絶えず人間の営みを侵
食し続けている。

「誰がババを引くのか?」

バブルの到来を予感し始めた頃、一部経済アナリストの間では既にこの手の会話がなさ
れていた。
多くの国民も、この狂乱がやがて迎えるであろう結末に、漠たる不安を覚えていた。
「結局、最後はどうなってしまうのだろう?」
そしてそれを牽引し、その渦の中心にいる連中も、実は一般国民同様、結局いつかはバ
ブルが破綻する日がやってくることを、心の奥底では密かに予感していたのだ。
だが一般大衆と彼らの間には、その結末に対応するシナリオについては、まったく異質
な展開を思い描いていたのだ。そしてそのことが彼らを強気にさせていた。

「結局ババを引くのは、やつら一般大衆だ!」

たしかにバブルに踊った連中の一部にはその結末は当てはまった。が、踏みつけられた
多くの大衆が羨ましく思うほどは、実は彼らが救われなかったのも、又事実であった。
「銀行」という器には湯水の如く血税が注がれ、かつてお茶の間を沸かせた多くの時代劇
とは真逆の結末を、国民は呆然と見届けるしかなかった。 だが、その器に関わった多く
の個人   虎の威を借るキツネや、大樹に留まろうとした小鳥達    は、他の国民
同様、時代という魔物によって無慈悲に踏みつけられた。
バブルを煽った多くの経済批評家は泡が弾けるとすぐにテレビ画面から姿を消していった。
無責任に資金を貸し付けた行員や、株は上がり続けると心底信じていた証券マンたち
も、その後数え切れないほど多くの人間がリストラの憂き目にあった。
そして自らを神の如き存在と信じ、殆ど世界を手に入れつつあると思い込んでいた金融
業のドン達も、その多くが、結局はイカルスと同じ運命を辿り、空しく天から滑り落ちてい
ったのであった。
アルファオアシス金融グループのドン・飛田義彦もまた、ロウでできたその翼が呆気なくも
げて、絶頂から急転直下、深い地の底に向かって惨めに落下していった。
公金の投入により、アルファオアシス銀行はじめ、グループ傘下の企業群はどうにか生
き残ったものの、当然、義彦とその一族は、その経営責任の所在を巡って、多くの社員、
債権者、さらには貸し付けた顧客達からの突き上げを食らったのだ。
とりわけ、グループの総帥である義彦と、その長男にしてアルファオアシス証券社長の飛
田武彦への風当たりは凄まじいものがあった。
ひとたび風向きが変わると、途端に彼らの行ったであろう数々の悪行が面に出てた。
単に「無責任で無節操な経営」をしただけに留まらず、「詐欺」「横領」「二重帳簿」「脱税」
といった古典的ともいえる経済犯罪の類から、「脅迫」「放火」「暴行」「殺人」といった卑劣
で粗暴な犯罪にまで、彼らが手を染めていた可能性が浮上してきたのだ。
こうなると、北飛田家“伝統”のお家騒動が勃発し、一族は更なる悪循環に陥った。
沈む船から逃げ出し、自身だけの保身を図る者や、せいぜい義彦・武彦親子を一族から
追い出し、北飛田の存続だけを図ろうとする者が、次々とメディアに一族の恥部をリーク
し始めたのだ。

多祥は、ここまで一族の資料に目を通したところで、一旦息をついた。右手の人差し指と
親指で閉じたまぶたの上から目頭を軽く押した。
「お疲れになりました?」
相変わらず横にいてくれた典子が、そわそわとした様子で多祥を気遣う。
「ええ・・・ちょっと、目が疲れましたね。・・・それにしても凄いですね。この分量。ありがと
うございます。ここまで調べていただいて」
多祥は、珍しく素直な気持ちで礼の言葉を述べた。
典子は、多祥がどのあたりまで資料に目を通したのかを確認しようと、座っていた椅子か
ら少し腰を浮かせて、彼が手にしていたファイルを覗き込んできた。
「バブル崩壊後の北飛田家の混乱について触れている辺りに、今目を通してます」
多祥は開いているページを典子の方に向けながら、今彼女が知りたがっているであろう
情報を先んじて言葉にしてあげた。
典子は、上げかけていた腰を再び椅子に下ろし、黙ったままうんと頷いた。
多祥が資料に目を通している間中、傍らで、相変わらずパソコンのキーを叩いていた飯
田が、不意に彼に話しかけてきた。
「礼には及ばないよ、刑事さん」

多祥は訝しがった。一瞬、彼が発した言葉の意図を汲みかねたのだ。だがその謎は飯
田がすぐに解き明かしてくれた。
「その資料、全部俺が打ったんだ」
礼はいらない、って?
資料を書いたのが自分だってことをてめえでばらしたら、礼をしろっていってんのと同じ
じゃねぇか!
「・・・ありがとう」
多祥は飯田の方に体を向き直し、気持ち笑顔を浮かべながら、今度はいつも通りに「皮
肉を込めて」礼を述べた。
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「実のところ」
典子が、まるで独り言を繰るように、小さく言葉を発した。その表情は、眉根を寄せ、如
何にも怪訝といった感じだった。そして一つ咳払いをしたあと、ようやく相手がいること
を思い出したのか、声を普段の調子に戻し話を続けた。
「よくわからないんですよね。そこから先のことが」
多祥は、続きを読もうとしていた捜査資料から一旦目を離し、典子の話に集中する。
「バブル崩壊以降、現在に至るまで、多くの都市銀行が業界再編の大波にさらされ、
望むと望まざるとに関わらず、合併や吸収を余儀なくされています。・・・ですが、なぜ
かアルファオアシス銀行は、未だに殆ど原形をとどめたまま生き残っているんですよ
ねぇ」
言われてみれば確かにそうだ、と多祥も思った。
正確に言えば、他行同様、アルファオアシス銀行もいくつかの合併劇を繰り返してい
た。だがそれらは全て、アルファオアシス銀行を主体に、地方銀行を吸収するという
形で行われていたため、なんと彼の銀行は、業態として殆ど以前と同じ姿を今日に
至っても尚とどめているのだ。
つまり結果的にアルファオアシス銀行は、他行同様、多くの不良債権に苦しみ、公金
を投入されどうにか生き延びたにも拘らず、バブル崩壊を期に、むしろ以前より“巨大
化”してしまったのだ。
「・・・そのうえ、結局、彼らは誰も経営責任を問われなかったのです」
「そう、なんですか?」
様々なことが脳裏を去来する中、今度は多祥が、うめく様に呟き声を発した。
「ええ。信じられないことに、頭取だった飛田義彦氏は、アルファオアシス銀行に新設
されたCEOというポストに収まったんです。・・・公金投入後、同行の経営責任が問わ
れる中で」
「・・・う~ん」
今度は本当に、多祥はうめき声を上げた。
何たることだ!
リストラの憂き目にあったサラリーマンが、自尊心を踏みにじられ、生活苦の果てに
年に何万と自殺しているという酷いこのご時世に、一方で、惜しげもなく血税を投入
され、国に助けてもらいながら、のうのうと分不相応な地位と生活を維持している輩
がいるなんて!
多祥は心底憤慨した。
そんな不公平がまかり通っていることなど、とうの昔に知っているつもりだった。しかし、
あらためてこうして実際に、不当な恩恵に浴している人物を“目の当たり”にすると、今
一度、彼の中に、あまりに正統な怒りがこみ上げてきた。
「やはり・・・息のかかった政治家や、官僚が裏で・・・?」
多祥は顔を紅潮させながら、典子にそう問うた。
典子もまるで彼の中に沸々と沸きあがってきている怒りのマグマに誘発されるように、
やや語気を強めて彼の問いに答えた。
「ええ!」
しかし少し間をおいてから、今度はややトーンを下げ、言葉の端々に遺憾の意をにじま
せながらも、極めて静かな口調で事実上前言を撤回した。
「・・・恐らく、そうだと思うのですが。・・・実のところ・・・それがよくわからないんです。こ
れといった証拠みたいなものがないので。・・・父が言うには、日銀からあらためて天下
った役員も特にいませんし、政治家や官僚が動いた形跡もないみたいなんです。・・・こ
の辺りの話は、特に今回の一件とは関係なく、亡くなられた飛田高志さんと、父の間で
も以前から随分議論していたようで・・・」
「そうですか」
改革派で鳴らす江藤博士と、そんな博士に共鳴する財界の若きリーダーが、現在進行
形の銀行再編について、もとより無関心でいるはずもない。ましてやそれが、飛田高志
にとって獅子身中の虫とも言えるアルファオアシス銀行なら尚更だ。このあまりに理不
尽で不可思議な人事に不信感を抱かないわけがない。当然、ありとあらゆるコネクショ
ンを使って、裏を取ろうとしただろう。そして恐らく、彼らには充分それをやれるだけの能
力もあったであろう。
だからこそ、あえて今一度、多祥は典子に問うてみた。
「この際ですので・・・典子さん。憶測や伝聞の類でも構いませんから、お父様は何かそ
の辺について、他におっしゃってませんでしたか?」
多祥は、典子が某か彼女自身の基準に照らし合わせて、自分に報告するには当たらな
いと判断し、あえてそぎ落とした情報があることを期待し、そのように質問した。 実際、
事件の捜査というものは、一般の人間からすれば、あまりに些細で何の価値もないと
思われる情報の中に、しばしば真に重要なものが存在することがあるのだ。
典子はしばし黙考した。
やがて何かに思いが至ったのか、一瞬、彼女の面立ちに僅かな光明が映えたように、
多祥には見えた。
しかし、それも束の間、彼女の表情はそれから徐々に曇り始める。困惑、しているとい
ってもいい。きっと、何かが気に障って話すことをためらっているのであろう。
こんなことをいったら、却って自分や、捜査そのものに迷惑がかかるのではないか?
あるいは、こんなことをいったら、笑われるのではないか?
等とあれこれ案じいるのであろうか。
多祥はもう一度、ためらっている典子の背中を押すように、話を促した。
「典子さん、どんな話でもいいんです。一見、捜査に関係ないように思われることでも、
ましてや、証拠なんかなくても構いません。証拠なんて・・・あとで見つければいいんで
すから」
彼は、彼女がリラックスするように、決して得意とはいえない笑顔を心掛け、そう語りか
けた。
「・・・そうですね」
典子もつられる様に、ぎこちない笑顔を浮かべた。
どうやらようやく意を決したようだ。
「なんといったらいいんでしょうか・・・前言を翻すことになるので、申し訳ないのですが
・・・実は、一人与党の大物が絡んでいるのかもしれない、と父は言っているのです」
多祥は、何か嫌なものを感じた。これから典子が話すであろうその内容に、登場するで
あろうその人物に、何か予感めいたものが脳裏をよぎった。
   宿命。
そう、彼はそれを、いわゆるデカの勘というヤツで、察知したのだ。
「一体、それは誰で・・・どういったことなんでしょうか?」
「父は、アルファオアシス銀行の、いえ、アルファオアシス金融グループそのものの、
つまりは北飛田家の背後に、与党幹事長の
村野議員がいるのではないかと推測して
います」
ああ、やはりそうか。思った通りだ。案の定、奴の名前が出てきたか。
多祥は奇妙な心持になった。得心がいった。いやそれ以上に、何か安堵感のようなも
のを感じた。
なぜだろうか?
それは多祥自身にもよくわからなかった。だが、恐らくは、彼は心のどこかで、奴の名が
ここで出てくることを密かに期していたのだ。そして、案の定そうであった、という事実
が、誠に奇異な調和を彼の心のうちにもたらせたのである。
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村野尚紀。
誰がこの名を忘れようか。いや、一日としてこの名を思い出さない日などない。
多祥の心奥にもたらされた奇妙にしてささやかな安寧は、すぐに微振動をきたし、瞬く間
にあたかもガタガタと音を立てそうなほど、わななきだした。
そして遂には、実際に彼の身体がぶるぶると震えだしたのだ。
いつの間に彼の目は座っていた。顔も見る間に紅潮してゆく。そして一層全身がわなわ
なと震蕩する。
「これが・・・武者震いってやつだったな」
多祥は心の内で、又ひとりごちた。 同時に、いくつもの記憶が鮮やかに脳裏を霞めて
は消えていった。
「本当に・・・久しぶりだな」
犯人を初めて自ら逮捕したとき・・・いや、以後もいつだってそうだった。
容疑者が目の前に現れた瞬間。包囲。職質をかける。内から沸々と沸いてくる激情を
押さえ込もうとすればするほど、身体に顕れる著しい症状。
眼前に、いくつもシーンが現れては消えていく。もう既に遠い過去に忘れてきてしまって
いたこの感触を、多祥はあたかも堪能するようにその感触を全身で味わった(実際に
は、ほんの1、2時間前、本部長からこの件について「捜査命令」が下った際、彼は思わ
ず武者震いしたのだが、最早すっかりそんなことは忘れてしまっていた)。
多祥は無意識のうちに、自らを落ち着かせようと、首にかかる十字架を服の上から右手
で押さえた。
典子も多祥の身体に発した微かな異常にすぐに気が付いた。彼の全身からある種の殺
気が強く感じられ、彼女は一瞬戸惑った。 しかし、何かに納得したのか、あるいはあえ
て見てみぬフリを決め込んだのか、結局彼女はそのまま話を続けた。
「今もいいましたように、特にこれといった証拠があるわけではないと、父も言ってまし
た。ただ、村野議員は長年与党の主流派に属し、そしてその中枢に常にいた人物で
す。特に近年は、裏で金融再編にも深く関与しているとのことですので・・・逆にいえ
ば、アルファオアシスを残存させようと、何らかの恣意的な行為が政治側からあったと
すれば、彼がイニシアチブを握っていたと考えるのが自然だとはいえますよね」
典子の口調はまるで多祥にお伺いを立てるかのように、まるで自信が欠落したものだ
った。
「村野は利に聡く、何かと黒い噂の耐えない人物ですし・・・まあ、何か、きな臭い感じが
少しでもあれば、何の根拠も無くても、彼のせいにすると、なんとなく妙な説得力みた
いなものが出てしまうのも事実ですけど」
そういうと、典子は無意識に微笑した。しかしすぐに真顔になった。そして再び話を始め
ると、次第にその思慮深い表情に苦悩のようなものが表れていった。
「・・・ただ、この話には一つだけ難点があるんです。つまり、利に聡い村野議員だから
こそ、アルファオアシス銀行を特別扱いする明確な動機がないと、彼が何らかの手心を
加えることはないと思うのですが・・・実際のところ、アルファオアシス銀行を存続させた
見返りみたいなものが、どうもはっきりしないらしいんです」
「見返り・・・ですか」
「ええ。・・・ここだけの話ですが・・・飛田高志さんも、実際かなり突っ込んで調べさせた
らしいんです。銀行のお金の動きとか、人の動きとか・・・それこそ、裏からも表からも調
べ上げたみたいなんです。何らかの形で、利権が村野議員を筆頭とする与党幹部や金
融庁側に渡っていないかを。・・・でも、行政にも、立法にも、働きかけをした痕跡はまっ
たくなかったみたいなんです」
「なるほど」
まったくの門外漢であっても、某かの政治的陰謀の匂いを嗅ぎ取ったら、そこに与党の
主流派が深く関与していることを想像することくらいは簡単にできるであろう。
ましてや今やフィクサーと目される村野幹事長なら、当然、現在進行形の金融再編に
深く関わっているであろうし、だとすれば自ずとアルファオアシス銀行の一件にも何らか
の関与があったと考えるのが当然だ。
だから、先ほどの予感めいたものなど、傍から見れば、想像通り村野の名前が出たか
らといって武者震いするほどのことでもないし、ましてやそれを持って「デカの勘」などと
威張るほどのことではない、と思われるであろう。 が、やはり、実際の当事者の間で
交わされている生々しい証言を、例え間接的にでも聞いた瞬間というものは、リアリテ
ィという点でまるで違う“迫力”みたいなものがあるのだ。
蛇の道は蛇、ではないが、やはり彼らのような実際の財界の人間の声を(間接的では
あるが)聞けたのは、デカの多祥にとっては大きな収穫であった。 飛田高志の死に、
村野が直接であれ間接であれ、関与しているかはまったくわからない。しかし、その飛
田高志の死に最も関わっているであろう一族に、村野がかかっていたであろう、という
情報が得られただけでも、今の段階では大いに満足すべきことであった。
だが、多祥は念のため、今一度、典子に念を押した。
「典子さん。一応お伺いしますが・・・村野が関与していると思われた理由は、他にあり
ませんか?」
典子は彼の言葉を受け、しばし思案した。多祥にしてみれば、その姿勢から既にある
種の回答を得ているようなものであった。答えは明白だ。それが何かは無論わからな
いが、他に思い当たる節があるのはたしかだ。
「・・・これは四師谷議員の公設秘書をされている中島さんという方から聞いた話なので
すが、なんでも、村野議員と北飛田家は、実は相当昔からの付き合いがあるらしいんで
す。これも今ひとつハッキリしない情報なんですけど。・・・なんでも、村野が議員になる
かならない頃から、繋がりのようなものがあったみたいなんです」
「つながり、のようなもの・・・ですか?」
多祥は、そのあまりにあいまいな表現に、さすがにいぶかしがった。
「ええ。直接のつながり、というのは確認できていないんです。ただ、極めて間接的なつ
ながりなら、ある程度確認できたみたいで」
「無論、未確認情報でも構いません。是非それもお話下さい」
多祥は、典子が少しででも話しやすいように、又例のぎこちない造り笑顔でそう促した。
「わかりました。・・・本当にこれはきわめて薄い繋がり・・・本当に繋がりといえるかどう
かも微妙なほどの関係、なのですが、聞いたままをお話します。なんでも、村野議員が
若い頃、彼の地元奈良の有力者の紹介で、彼はとある会員制のサロンのようなものに
招待されたようなんです。以来、彼は現在もそのサロンの正式メンバーに名を連ねてい
るようなんですが。・・・実はですね。そのサロンに・・・」
「・・・北飛田家のメンバーも名を連ねている、のですね?」
多祥は間のいい合いの手を入れたつもりだった。だがそれは違った。
「いえ。・・・それは最後まで確認できなかった、とのことです。ただ、かつては飛田家の
人間もこのサロンに名を連ねていたのは確かなんですよ」
「・・・故人、ですか?」
「ええ」
「創始者の、万蔵とか?」
多祥は必要以上なほど慎重に尋ねた。だが、それでもまた彼のデカの勘は外れた。
「いえ、入会していいたのは、その万蔵夫人の
飛田 絵馬子という人物です」
「・・・とびた、えまこ」
多祥は正直驚いた。会員制の社交場に女性が名を連ねているとは。しかも、例えばヨ
ーロッパの貴族社会でのことならまだしも、戦前の日本で。
一体、そのサロンとはどんなものだったのであろうか?
多祥は自身の歴史認識の甘さを痛感するとともに、純粋にその話に興味を抱いた。そ
してそのままその旨を素直に典子にぶつけた。典子が答える。
「実は、一説には絵馬子自身がそのサロンを創設した、ともいわれているのですが、そ
の辺もよくわかりません。ともかく、彼女がその会の高級メンバーだったことだけは確か
です。いわゆる社交場、というやつなんでしょうが、村野が会員になるくらいですから、
文化的なサロンというよりは、やはり政治結社的な趣の方が強い組織なようで・・・」
「政治結社?・・・フリーメーソンとか、あんな類の秘密結社、ですか?」
「はい。どうやらそのようです。政財界の大立者が集まる場、のようです。ただし、フリー
メーソンのようにインターナショナライズされたものではないようですが。あくまで日本国
内の関係者だけの集まりのようです」
「そうですか」
なるほどな、と多祥は思った。秘密結社、なんてものが登場すると、なんだか途端に話
がウサン臭くなる。如何にも娯楽映画の世界の話、といった感じがして、どうにも実感
が伴わない。
典子が神経質なほど自分にこの話をすることに慎重な態度をとった理由が、彼にもよう
やくわかったような気がした。 しかし、彼女がどう思おうと、いや、自分自身がどう思う
と、情報は一つ一つ潰していかなければならない。それが捜査の鉄則だ。
「もう少し、その件について知っていることがあったら、それも遠慮せずに是非お話下
さい」
「はい」
典子はさらにその続きを話した。
43
「そのサロンといいましょうか、政治結社といいましょうか、とにかくその会員制の集会
というのは、基本的に秘密主義的な色彩が強いので、あまり内部のことはわからない
みたいです。ただ、四師谷議員の秘書をなされている中島さんって方は非常に顔が広
い方で、あちこちに有力なコネを持っていて、普通、手に入らないような情報でも何とか
手に入れることが出来るとかで・・・あ、あまり本題とは関係ないですね、こんな話」
典子が又、例の多祥のお気に入りの仕草をした。きりりとした隙のない美人に、ある意
味あまり似つかわしくない、照れ隠しにペロリと舌を出す愛らしい仕草だ。
「いえ、どうぞ、お続け下さい」
多祥の表情が今度は自然とほころんだ。
その様子を、それまで二人にまったく関心がないような素振りでパソコンのキーを黙々
と叩いていた飯田が、チラリと目線をやった。そしてなんだか妙に不愉快そうな顔を一
瞬したのち、再びモニターに視線を戻し、一連の作業に没頭し直した。
「とにかく、そのサロンは戦前から続いている伝統あるサロンで、とても政治色の濃い
集まりだ、ということはその中島さんのあるツテからわかったそうなんです。・・・で、村
野議員なんですが、彼が入会できたのは、無論、有力者が後押ししてくれたことと、も
う一つ大きな理由があったそうで・・・それもやはり、正直言えば不確かな情報なんで
すが」
又典子がここで一息ついた。すると、飯田が再び仏頂面をして、遂に声を発した。
「のりちゃんさぁ。さっきから、なんか出し惜しみしてるみたいに、モタモタモタモタ話し
てるけどさ、別に取調べでもないんだし、ましてや裁判でもなんでもないんだからさ、
知ってることどんどん話しちゃいなよ。証拠があろうがなかろうがさぁ、確証があろうが
なかろうがさぁ、そんなのは刑事さんの判断に任せりゃいんだからさぁ!そうでしょ?
刑事さん」
どうやら彼はずっと典子の態度に我慢をしていたようだ。
「・・・」
ずばり彼の言う通りではあったが、それに相槌を打っては、典子が気の毒だ。多祥は、
飯田の呼びかけに、あいまいな態度で応答した。微笑とも、困惑とも取れない表情を
浮かべて、飯田を見やり、会釈するでもしないでない程度に頭を前に僅かに振り、そ
して同様の表情をつづけたまま、再び典子のほうに体を向き直した。ありていに言え
ば、多祥は笑って誤魔化したのだ。
「ごめ~ん」
飯田のやや強い口調に、典子が大いに不快感を示すのではないかと多祥は危惧して
いたのだが、慣れているのか、当の彼女はまるで気にしていないようで、至って明るく、
そして軽薄に一応の謝罪をしてみせた。そして又も、あの癖になっている仕草で照れ隠
しをした。
「それだよ」
飯田の言動がいよいよ刺々しくなった。
「俺、そののりちゃんの、舌ベロをペロッって出すの、すんげームカつくんだよねぇ」
彼の口調からは、それが本当に心底不愉快そうであることが伝わってきた。
「ごめんよ~、だ」
しかし一方の典子もまるでへこたれない様子で、飯田に向けて再びペロリと舌を出し
て見せた。
「ねっ!これマジムカつかない?刑事さん」
多祥は今度ばかりは愛想笑いを浮かべることを断然拒んだ。
「のりちゃんってさ、それで自分がかわいいって思ってんでしょ?わざとらし過ぎるって、
のりちゃん。・・・ぶっちゃけ、そんなのに騙されるのおっさんだけだよ!ね、刑事さん
!」
ええっ?!そうなの?! 俺は、この彼女の仕草、すっげーかわいいと思ってたのに
・・・う~ん、もしかして、女性のこういう仕草に愛らしさを心底感じた俺って、もうオジ
サンなのか?
多祥は、思わず苦笑した。
「別にそんなつもりじゃないわよ!」
いきなり典子が不機嫌になった。先ほどまでと違って、なんだか彼女の言葉も如何に
も棘のある感じがした。
「・・・いえ、自分は・・・そんな風に思いませんよ」
多祥は自分でもよく理由がわからないほど、懸命にフォローした。
「かわいい、じゃないですか。・・・あ、すみません。個人的な意見を述べてしまいまし
た。不快を感じられたのでしたら謝罪します」
典子は、そんな多祥の誠実な態度に触れて、いきなり機嫌が直ったのか、瞬時に満面
の笑顔を浮かべて、多少の方に丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます、多祥さん」
そして頭を上げると、彼女はあえてもう一度、飯田に向かって舌を出した。 飯田はそれ
を受けて、なぜか笑顔になった。そして思いもしないことを口にした。
「ふ~ん、かわいいんだぁ。ふ~ん・・・刑事さん、のりちゃんのこと好きなんじゃん?!」
多祥は一瞬キョトンとした。
「・・・はははっ」
そして少し間を置き、なんとも中途半端な笑い声を上げた。
このガキが・・・何をわけのわからんことをいってるんだ!
多祥は、飯田の幼稚さに、いかにも学生だなぁと、何か論理を超越した次元で、彼に対
し妙に得心がいった。
「で、私、どこまで話したかしら」
典子が前触れ無しにいきなり本題に帰ろうとしたので、多祥は少々戸惑った。
「村野って議員がその秘密結社に入会したもう一つの理由ってやつさ。それをいおうか
いうまいかって迷ってたんじゃん」
「あ、そうそう」
皮肉にも、話の腰を思い切り折ってしまった飯田が、話を元の方向に戻してくれた。
「何でも、戦中だか終戦直後だかに、奈良県の・・・う~ん、き・・・きば村っていったかし
ら。うん、たしかそう、鬼刃村よ。その鬼刃村でなんか大きな事件があったみたいなんで
す。多祥さん、ご存知ですか?」
「いえ」
多祥は即座に否定した。
「鬼刃村で、なにか殺人事件だか、失踪事件だか、とにかく何かあったらしいのです。
でも、なにぶん戦後のどさくさで、真相はおろか事件そのものが有耶無耶のうちに闇に
葬られてしまったみたいで」
「又、やったのはCIAか?!清張の下村だか、下山事件とかみたいに」

今やすっかりパソコンに向かっての作業を中座させてしまった飯田が茶々を入れてき
た。しかし典子はこれを無視するように話を続けた。
「で、それをその村野の支援者である奈良の有力者が、熱心に調べていて、その際、
その有力者の手となり足となってマメに動いたのが、当時、地元で市議会議員をや
っていた村野だったらしいんのです。それで、その有力者の信頼を勝ち取った彼は、
やがて衆議院議員に転進し、さらに、かつて飛田絵馬子が所属していたそのサロン
にも加わることが出来たんだそうです」
「・・・なるほど」
多祥はその話を受けて、腕組みをしたまま暫く熟考した。 話のあらましを聞く限り、そ
の結社を介しての村野と飛田家の関係だけでは、たしかに繋がりとしては甚だ線が細
いかも知れない。しかし、多祥にはその繋がりがいたく気になった。
「絵馬子、以外の飛田家の人間がそのサロンのメンバーかどうだったかは、わからな
いんですよね?」
もう一度だけ、多祥は念押しに質問した。一見無意味でくどすぎる作業のように思える
が、捜査には重要な手続だ。
「はい。一族では、確認できたのは絵馬子だけです」
「そうですか」
どうしても気になる。多祥はそのサロンとやらを調べる必要があると睨んだ。これこそ
刑事の勘ってやつだ。
「お役に・・・たてましたか?」
典子が不安げに多祥に問うてきた。
「はい、とても。ありがとうございます」
多祥が笑顔を見せると、典子にも安堵の表情が浮かんだ。 だがそれでも、多祥は刑
事としての務めがまだ残っていた。因果な商売だが仕方ない。そのためにここに来た
のだから。
「典子さん。他には何かまだ、この件に関する情報はありませんか?」
しつこい男は嫌われる。重々承知だが、多祥はなおも職務を全うしようと、典子に重ね
て問うた。

44
多祥の念押しに、典子はある種の義務感みたいなものを負ったのかもしれない。
何かを言おうとした後、躊躇した様子でしばし沈黙し、やがてその長い長い数秒間を乗
り越え、遂に彼女は吹っ切ったように、その思いを言葉にした。
「多祥さん。これはまったくの私見なのですが、よろしいでしょうか?」
典子はなぜか射抜くような強い目で多祥を見据えた。
これに対し多祥は、情けなくも気おされ気味に、あわてて同意して見せた。
「・・・ど、どうぞ」
典子は頷き、静かに語り始めた。
「そのリポートにもありますが、アルファオアシス・グループの創設者、飛田万蔵は、な
ぜか自分の跡目に、長男の誠一ではなく、誠二を指名しました。・・・無論、ビジネスマ
ンとして冷徹な判断で、兄より弟の方を評価した、との見方も出来ますが・・・私、ある
考えに至ったんです。色々と資料を調べていくうちに」
多祥が小首をかしげながら、一応の問いをした。
「動機、ですか?・・・つまり、万蔵が、誠二を自分の後継者に指名した動機を、あなた
は推察した」
「というより」
典子が間髪いれずに、より適切な言葉で自分の考えを表現した。
「私がある種の結論を導き出したのは、誠一を後継者に指名しなかった “動機”につい
てです」
そういうと、彼女の目線が一瞬、飯田に向けられたような気が多祥にはした。これに対
し、飯田も一瞬、反応にしたように彼には思えた。ほんの一瞬だが、飯田が頷いたよう
に見えたのだ。
いや、厳密には決して頷いてはいない。ただ、典子が目で飯田にお伺いを立て、飯田も
これに対し、目だけでゴーサインを出した、様な気がしたのだ。
以心伝心、とでもいうのか、阿吽の呼吸とでもいうのか、何か二人だけにわかる意思の
疎通みたいなものを、しかし多祥もその僅かな空気感からはっきりと読み取ったのだ。
「重複になりますが・・・色々と資料を見ていて、私感じたんですけど・・・飛田万蔵は、自
分の後継者に誠二を指名した、というより、誠一を指名しなかった、ように段々思えてき
たんです。その理由を簡単に言うと、万蔵は、誠一を自分の子供のようで、実のところ
自分のことは感じられなかったんじゃないかな、って・・・そう思ってたんじゃないかなっ
て、私、思ったんです」
「・・・ほう」
多祥は、とりあえず彼女の御説に何の根拠も無く同調して見せた。
「長男の誠一は、どちらかというと、というかはっきり言って、父親の万蔵ではなく、母親
の絵馬子に性格が似ていたようなんですよね。色々な資料を見る限り」
「・・・はあ」
正直、多祥は落胆した。
典子の推測の根拠とやらは、その程度のもの、なのだろうか?
もっといえば、典子という女性は、その程度の思考能力しか持ち合わせていない女性
なのだろうか?と、多祥は感じてしまったのだ。
たしかに、自分に似ていない息子を後継者から外す、というのは、逆により深い洞察が
伴っていれば、有り得ない話ではない。
例えば、父親が勤勉で、息子がその真逆の性格だとしたら、どれほど身内びいきの人
間でも、己の後継者にするか否か、判断には迷うところであろう。ましてやそれがビジ
ネスに関することなら尚更だ。しかし、今の話し振りからは、そういったニュアンスは、
少なくとも多祥には感じることが出来なかった。如何にも彼女の口ぶりからは、「自分よ
り、妻に似ているから気に食わない息子」に自分の後継は任せられないと、かの企業
家が判断した、と推論しているように聞こえる。
だが当然、彼女の話には続きがあった。そして無論、典子の判断力も推察力も、少なく
とも多祥が落胆する程度、などでは決してないということを、幸いその内容から彼は窺
い知ることが出来た。
「もっというとですね、多祥さん。私、誠一はその母親の絵馬子似、というよりも、彼女の
実家である霊峰大寺家の血をより濃く受け継いでいたと、万蔵は感じてたんじゃないか
なぁ、って思うんですよ」
「・・・霊峰大寺、の血ですか」
「ええ。・・・なんでも、霊峰大寺家は、もともとは貴族の家柄で、鎌倉期以降は
羽林家
の一つに数えられていたのだそうです。ですが、維新の混乱で当主が長期にわたって
不在となり、漸く本家筋の娘が縁戚から婿を取り、当主に立てたにも拘らず、霊峰大寺
家はときの明治政府から“正統な男性の戸主”がいないものと判断され、華族に列せ
られることなく零落してしまったそうなんです」
「古臭い話だね。鎌倉時代だの明治維新だのって。ねぇ、刑事さん」
飯田が又茶々をいれた。多祥はとりあえず黙って頷いた。しかし、目線は飯田の方には
あえて向けなかった。
その様子を彼女がどう捉えたかはわからないが、典子はさらに話を続けた。
「以降、霊峰大寺家の人間にとって、お家再興こそが至上の命題となりました。ところが
皮肉なことに、どういうわけか、生まれてくる子が皆、以後女の子ばかりになってしま
ったそうなんです。つまり、何の因果か明治期から後の霊峰大寺家当主は、代々婿養
子、ということになってしまったらしいんです。そもそも霊峰大寺家が華族の選に漏れた
のも、元はといえば男系の当主が絶えたことにあります。しかしですね、彼女達はさら
にこう考えたらしいのです。『華族に列せられなかったのは、当主が婿養子だったか
ら、ということだけが理由ではない。あの維新の折に取った婿の家柄が低かったから
だ』って。彼らはお婿さんを取る際、霊峰大寺家の血筋にこだわるあまり、より本家に
近い親戚から旦那さんを迎え入れたそうなんですが、実は当時、親戚だったそのお婿
さんの家も既に没落しかかっていて、殆ど無位無官に近い状態だったらしいのです。
そして、結果華族になれなかった為、霊峰大寺家の人々は、その理由を彼自身とその
実家の地位に求めた、というわけです」
「つまり、そのとき、必ずしも血筋にこだわらず、高位高官の家の男子をお婿さんに貰い
受けていれば、霊峰大寺家は無事華族の仲間入りが出来たはずだ、と彼らは考えた」
多祥が割って入り、一旦彼女の話の要点をまとめた。
「そうです」
彼女は気前よく、彼の解答に満点をくれた。
「なるほど」
多祥は、解釈に典子からお墨付きを頂いたことで、あらためて合点がいったようだ。
「結果、霊峰大寺家の女当主達は代々、名家から婿を迎え入れることに狂奔します。ツ
テを頼っての婿探しにはじまり、それが不首尾に終わると、遂には資材をなげうってま
で、それこそ伯爵や子爵の子息をお婿さんに迎え入れるための“工作資金”を用意し、
それを諸侯や、政府役人にばら撒いたりと、とにかく思いつく限りの手を尽くして、彼ら
が思い描く“名門復活”を目指したようです」
「そんなことまで・・・それで、結果はどうなったのですか?」
滑稽さといささかの不憫を感じながら、多祥が問うた。
「ええ。結果、維新から2代後のお婿さんを遂に華族から迎え入れることが叶いました。
然る男爵家の子息を。それでも霊峰大寺家の人間は満足しなかったようですが」
なにが不満なんだろう?と多祥は率直に思った。
彼は単純に、その縁談が叶ったことで、彼らの野望は満たされたのではないか、と解釈
した。にも拘らず、彼らが不満を感じたというならば、彼らの真の目標は他にあり、それ
が消化不良に終わったから、ということになる。まあ、自分にはそのような、やんごとな
き方々の悩みなどわかろうはずもないわけで、きっとなにがしかの、いってみれば、
極めて贅沢な“ご不満”が残ったのであろう。
多祥は極めて大雑把に思考をめぐらし、適当な回答を己が中で得て、それ以上の疑問
を持とうとは思わなかった。
しかし、たしかに彼の考え方、ものの捉え方は一面では的を射ていたが、一方である
重要な部分がごっそり抜け落ちていた。
よく考えればわかることなのだが、その抜け落ちた部分こそが、今回の事件の大いなる
バックボーンを握る鍵となっていたのである。

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下山事件(Wikipedia)・【日本の黒い霧】(松本清張)
羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣
家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置する。近衛少将・中将を兼ね、参議から
中納言、最高は大納言まで進むことができる武官の家柄。極稀ではあるが、内大臣ま
で昇進する者もいた。明治維新後の華族令では原作伯爵に叙せられた。

(「Wikipedia」より引用)
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